メモ:「~を」で終わるニュース記事の見出しと本文のミスマッチ

「ロンドン開催を」ってどういう意味?

週刊でネット上の情報検証をまとめた記事を掲載しているサイトで、以下のような情報訂正が行われていた。

ロンドン市長が2020年ロンドンで五輪開催を主張」
→主張したのは市長選候補者

《週刊》ネット上の情報検証まとめ(Vol.21)【大船怜】 | FIJ|ファクトチェック・イニシアティブ

ここでは、ロンドンでの五輪開催を主張したのは市長ではなく市長候補という点について情報訂正が行われている。個人的に気になったのは、市長候補が「五輪開催を主張」していたのかという点だ。

というより、ニュース自体にはあまり興味がないのだが、この情報の元となった記事の見出しになっている「ロンドン開催を」という表現について私は気になっている。「ロンドン開催を」という見出しは、一見ロンドンで開催すべきだと主張しているように見えるが、記事の本文を読むと必ずしもそうとは思えない。

以下の引用における下線は、筆者が追加したものである。

今夏の五輪「ロンドン開催を」 新型肺炎で市長選候補名乗り

(前略)

国政与党・保守党公認候補として出馬するショーン・ベイリー氏はツイッターで「2020年、ロンドンは再び五輪を開催できる」と宣言。「われわれにはインフラと経験がある。そして(新型)コロナウイルスの発生により、世界はわれわれの介入を必要とするかもしれない」と東京五輪中止の可能性に言及。「市長として、私はロンドンが呼び掛けに応え、五輪を開催する準備があると明確にする」と表明した。

(後略)

今夏の五輪「ロンドン開催を」 新型肺炎で市長選候補名乗り:時事ドットコム

 

この記事の本文においては、市長候補のベイリー氏は「ロンドンで開催するべきだ」と主張しているわけではなく、「ロンドンで開催することが可能である」もしくは「ロンドンで開催する準備がある」と主張しているようである。そもそも市長候補のベイリー氏が積極的に「ロンドンで五輪開催を主張」しているかというと、そういうわけではなさそうだ*1

しかしながら、「ロンドン開催を」という見出しだけを見たときには、私は「ロンドン開催を(するべきだ)」と要望している印象を持った。それゆえ、私はこの見出しが記事の本文に対してミスリーディングな表現になっているのではないかと思った。

 

 

 

見出しの「~を」について

私の印象で話を進めるのも問題なので、少し日本語文法の研究にあたってみる。 

ニュース記事等の見出しの文法について扱う野口(2002)という研究においては、以下のような記述がなされている。

 見出しの末尾が助詞「を」で終わる場合は,「を」を伴う動詞 に「勧誘(呼びかけ)」や 「希望」・「要望」,「当然」・「適当」を表す「~よう」「~たい」「~べきだ」などのついた形が省かれている,と見るほうが適切である。

(29) 大学再生へ「考える教育」実践を (朝日 1997/6/19)

(30) 政府は志を新たに出直しを (朝日 2000/6/28)

CiNii 論文 -  「見出し」の"文法"--解読への手引きと諸問題

ここでは、「を」で終わる見出しについて、「~よう」「~たい」「~べきだ」のように一定の形式が省かれていると考えている。逆に言えば、「を」で終わるからといって、「ロンドン開催を可能としている」のように自由になんでも省略できるというわけではないということになりそうだ。

また同じく見出しの文法について扱う森山(2009)においても、要求や決意をあらわす表現として、「を」で終わる見出しを取り上げている。

要求表現については,報道記事の場合,引用する形で出される場合がふつうである。これは特定の要求者があることが前提となっているからである。この場合,引用内部での要求や要望というモーダルな意味は「を」で表示されている。

 (42) <サミット誘致>「福岡市でサミットを」桑原市長ら首相に要望(毎日新聞980113)

 (43) <自民党>橋本首相「参院過半数確保を」全国幹事長会議で決意(毎日新聞)

などでは,実質的に「を」の後に「めざしたい」「お願いしたい」などの要望などである。(原文ママ)

CiNii 論文 -  新聞見出しの文法・序論

ここでは「を」で終わる引用部は、要求や要望などをあらわしていると考えられている。見出し全体ではなく、見出しの中の引用部を取り上げている点で野口(2002)とはやや異なるが、「を」で終わる部分が希望や要望をあらわしているという点では見解が一致しているようである。(要求・希望・要望などの言葉の使い方にも違いはある)

さて、これらの記述に従うなら、「ロンドン開催を」というのは、「福岡市でサミットを」が「福岡市でサミットを開催して(させて)ほしい」という市長の希望もしくは要望をあらわしているのと同じように、「ロンドンでオリンピックを開催して(させて)ほしい」という希望もしくは要望をあらわしているということになる。

しかしながら、ロンドン市長候補のベイリー氏はそこまでのことは主張していない。あくまで「開催できる」と主張しているに過ぎない。

 

正しい日本語とかそういうことが言いたいじゃないんですよ

ここで言いたいのは、正しい日本語とかそういうことではない。日本語の研究は正しい日本語を定めるものではないし、むしろ実際の日本語を後から追いかけてそれがどのような有様なのかを調べるのが研究と言えるだろう。

そういう意味では、「ロンドン開催を」が希望や要求という意味を持たない見出しであるとすれば、それは過去の研究とは異なった形に日本語が変化していくという実例とみなすことができるかもしれない。

一方で、この「ロンドン開催を」という見出しがニュース記事の見出しであることも無視できない。報道という事実を正確に伝えることが重要な場面においては、誤解を生むような表現は避けることができれば、その方が良いだろう。

言葉というものには、「頭が赤い魚を食べる猫*2」のように多様な意味で受け取れるあいまいな表現が存在する。それ自体は文学的な効果を発揮したり、現実のコミュニケーションを豊かにしてくれることもある。一方で、あいまいな表現は、報道においては避けた方が無難であるように思う。

それと同じ意味で、「ロンドン開催を」が希望や要望という意味で用いられていないのなら、報道やニュースにおいては誤解を生みやすい表現になっているんじゃないか。私がこの記事で言いたかったのは、そういうことです。

 

だいたい意味は変わらないんだしOK、では多分ない

そんなことを言ったって、このタイミングで「ロンドンでオリンピックを開催できる」というのは、実質的には「ロンドンでオリンピックを開催するべきだ」と言っているようなものじゃないか、といった考え方もあると思う。

しかしながら、そういう風に「真意」みたいなものを解釈するのであれば、記事の見出しだけでなく、記事の本文で言及することもできるし、どうして見出しにだけそういう解釈を載せるのかということが問題になると思う。見出しと本文がミスマッチであるという点では、やはり誤解を生みやすい記事になっているのではないか。

また、「そもそも見出しだけ読んで本文を読まない人間が悪い」という考え方もあると思う。しかしながら、みんながみんな本文を読むのであれば、見出しがどんな内容でもいいのかといえば、そんなことはないだろう。

 

今回は、なんとなく目についたので「ロンドン開催を」という見出しについて取り上げたが、別にこの記事に特別な悪意があるということではないと思う。このくらいの言葉のズレは、世の中にはたくさん転がっている言葉のズレの中ではむしろ些細な方だろう。

しかしながら、世の中にたくさん言葉のズレが存在するのであれば、それについてもう少し意識しながら生きていけば、もう少しズレを解消することができるのではないかと思う。そういう一つの事例として、今日は「ロンドン開催を」という記事について取り上げさせていただいた。記事そのものや記事を執筆した方に対して攻撃をする意図などは決してないことを最後に付記しておく。

 

参考文献

野口崇子(2002)「「見出し」の"文法"--解読への手引きと諸問題」『講座日本語教育 』38,pp. 94-124, 早稲田大学日本語研究教育センター

森山卓郎(2009)「新聞見出しの文法・序論」『日中言語研究と日本語教育』2.pp.13-20,好文出版