日記:桜と死

※別名義・別のwebサービスで公開していた文章を転載したものです。

桜はあまりにも象徴的な花なので、さまざまなイメージを背負わされている。その中でも、桜という花に死のイメージを見出すことがある。しかしながら、桜のどんな面に死を見出すかはさまざまで、興味深い。

中でも、小泉八雲『怪談』所収の「十六桜」「乳母桜」と梶井基次郎の「桜の樹の下には」ではいずれも「死と桜」を扱っていながら、その関係が真逆にも見えて面白いので、ここに残しておく。どれも短い話なので、簡単に読めると思う。

 

 

・『怪談』より「十六桜」「乳母桜」

小泉八雲の『怪談』は、彼が妻から聞いた各地の伝説や幽霊の話をまとめた作品である。この『怪談』の中で桜の登場する二つの作品は、くしくも「何者かの命日に呼応するように桜が咲く」という結末である点で似ている。
詳しいあらすじをここでは紹介しないが、簡単な筋だけをまとめると、以下のようになる。

十六桜

・ある桜の木の下で育った侍が老人になり、長生きしたがゆえに子供も死に、桜だけを愛している。
・しかし、その桜が枯れてしまう。
・侍は桜のかわりに腹を切って自分の命をささげることで、桜を助けようとする。
・侍の命日である一月十六日に、毎年桜が咲くようになる。

乳母桜

・とある少女が病に臥せり、死に瀕する。
・少女を愛していた乳母は、お寺で連日祈り続け、少女の恢復を願う。
・ある日少女は病から恢復するが、翌日に乳母が体調を崩す。
・乳母は祈りのなかで、自分を少女の身代わりにしてほしいと懇願した。また寺の境内に桜を植えることも祈りの対象である不動様に約束していた。
・乳母がなくなった後、少女の両親は寺の境内に桜の若木を植えた。その桜は乳母の命日である二月十六日に花を咲かせるようになる。

自己犠牲的に命をささげた人間の命日に桜が咲くというところに共通点が見いだせる。もっとも十六桜は、時期を逸した狂い咲きの桜であり、そういう点に違いはある。ここでは、死が高潔な、(たとえ歪であろうとも、)美しいものとして扱われているようにも思える。

・「桜の樹の下には

桜の樹の下には」は筋のある物語というよりは終始モノローグであるため、筋をまとめるのが難しい。結論から言えば、桜の美しさに言い知れぬ不安を覚えた語り部が、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という空想によって桜の美しさに対する不安から解放される、というのがこの小説の筋書きである。

ここでは、死を美しいものとしては描かない。この小説において死体は、蛆がわいている、においがする、液が垂れているといった生々しい文章によって描写される。その醜悪な死体から液体を吸い取って咲き誇る桜を、語り部は空想している。美しい情景の裏側に惨劇を読み取ることによって、語り部は一種のバランスを取って、その美しさに安心できるようになる。小説は、「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」という一文で幕を閉じる。

小説本編には、桜だけでなく、薄羽かげろうの美しい結婚の様子の裏側に、産卵を終えた薄羽かげろうの死体を見つける描写もある。桜だけではない普遍的なものとして、美しさと醜悪さの均衡を語ろうとしているのだろうか。

桜をとりまく美しい死と醜悪な死

「十六桜」「乳母桜」においては、高潔な死に呼応して咲き誇る桜の様子が描かれている。一方、「桜の樹の下には」においては、醜悪な死体と美しい桜が均衡を取る様子が描かれている。いずれも何らかの形で死と桜を結びつける物語だが、その関係は「十六桜」「乳母桜」と「桜の樹の下には」において真逆である。

これは死のどんな面に焦点を当てるか、という違いでもあるが、美しさというものをどのように解釈するか、という違いでもある。「十六桜」「乳母桜」は、桜に対して疑念を抱く物語ではない。しかしながら、「桜の樹の下には」では、桜の美しさに不安を覚えるところから小説が始まる。そして美しさの裏側に醜悪さを見出すことになる。

私は、桜のことがよくわからない。綺麗だとは思うが、その綺麗さについてどうとらえればいいのかよくわからない。

あなたが桜を見るとき、その裏には、どんな光景が広がっているだろうか。美しさと美しさを呼応させるのも一つの解釈だろうし、美しさと醜悪さを均衡させるのも、また一つの解釈だろう。まったく異なったあなたなりの解釈も、きっとまた面白いものになるだろう。