日記:安永蕗子の短歌(と私)

以前ブログで、なんとなく好きな和歌や短歌を50首選んでみるという記事を書いた。

日記:好きな短歌・和歌50首 - しゆろぐ

中でもなんとなく心に引っかかった歌人として、安永蕗子の歌をすこし取り上げて書いてみる。

しかしながら、私自身、まだ本人の歌集を手に入れることはできていないし、人が取り上げたものでしか安永蕗子については知らない。詳しいから書く訳ではなく(安永蕗子について詳しくもなければ、そもそも短歌についても詳しくない)、上記の50首を選ぶ上で強烈に印象に残ったので、とりあえず現時点での感想などをつらつら書いていく次第だ。

2012年に亡くなったらしい。遠い昔の人というわけではないが、生きていた時期がかぶっていたという実感もあまりない。今年に入ってから知ったのだから、仕方がないか。

「(と私)」と書いているが、初めに出会ったのはどの本でという経緯が書いてあるだけど、特に私の人生等について書いてあるわけではない。ただ、以前の50首に選んだ経緯とかも書いてあるので、やっぱり「(と私)」という感じもする。

 

 

私が安永蕗子の歌を初めて見たのは、精選折々のうたに掲載されていたのがきっかけだ。

精選折々のうた 日本の心、詩歌の宴 上

精選折々のうた 日本の心、詩歌の宴 上

  • 作者:大岡 信
  • 発売日: 2007/07/06
  • メディア: 単行本
 

最初に出会ったのは次の歌。

つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ち来る 

まず目を引くのは、「燃え殻のごとき雪」、炎属性と氷属性が両方そなわり最強に見える雪を燃え殻でたとえる比喩の鮮烈さ。しかしながら、燃え殻は冬の乾いた空気によく似合う(と私は思っている)し、灰色の空から落ちてくる雪は割とゴミのように見えなくもなくて、燃え殻に見まがうこともありそうで、鮮烈でありながら妙にしっくりくる。

そして、「虚しき空」、一見何もないように見える場所からそれが落ちてくるという静と動の緩急の激しさ。「抜けるような青空」であったり「突き抜ける青空」とはよく聞く文句だが、「つきぬけて」を雪が降るようなおそらく灰色の空に当てているのも好きだ。

完全な個人の好みとして、私は歌の中で動詞を二つ重ねる表現があまり好きではないので、「落ち来る」という部分はやっぱり好きではないのだけど(これは完全に個人的な好みであり、そしてこの表現は割と頻繁に見るものなので、短歌としては正当なのだろうと思うのだけど)それが気にならない程、鮮烈に情景を描いている。

それでいて、描かれている情景そのものは、何も不思議ではない、どこにでもあるようなもの。歌自体は鮮烈に見えるのに、景色を想像するとその鮮烈さが隠されて閉じ込められるような、その凝縮された言葉の美しさに私は心惹かれた。

短歌の響きや音については、私はうまく語れないのだが、57577どこをとっても「き」が含まれているのは偶然ではないだろうと思う。

 

私が続いて出会ったのは次の歌。

天体を廻わすにはあらぬ腕あげてさびしき伸びをしたる少年

折々のうた』における大岡信の文章では、「末は博士か大臣か」という言葉が持ち出されて、過去における男児に対する期待と、現代における男児に対する期待の差異みたいな話が出ていたと思う。確かに家父長制の時代の男の子と、今の男の子が背負うもの、あるいは背負わされるものには違いがありそうだ。

私はそういう難しいことはわからないので、男の子の「伸び」という所作、仕草に着目しているところが好きだった。

これは私が読んでいたものが偏っていたのだろうけど、「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(大伴家持)」「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ少女の姿しばしとどめむ(良岑宗貞)」のように、少女の所作や佇まいを情景として取り扱っている和歌に対して、少年をそういう風に扱っている歌を私があまり知らなかったというのも大きいと思う。

また少年を活発な動くものとして描くのではなく、むしろもの憂げで静かなものとして扱っているのもいい。「天体を廻わすにはあらぬ腕」というのは、どう考えても過大なものを勝手に持ち出して、勝手に翼をもぐような言葉だと思う。たいていの人間は天体を廻さない。しかしながら、そのように翼をもがれた少年のさびしい伸びは、確かに美しいと思える。

それに、過大なものを持ち出してもそれを背負わせる方向に向かっていないし、その描き方が少年に強く張り付いたイメージを強化するものでもない。そういう意味で、安心できる。

 

そこから、wikipediaや短歌研究という雑誌に掲載されていた百首選、解説を書いているwebページ、個人のブログの感想などなどをあたって、いくつか好きな歌に出会った。まずは、冒頭にリンクを貼った50首に入れなかったものを取り上げる。

紫の葡萄を搬ぶ船にして夜を風説のごとく発ちゆく

これは、川野里子氏のwebページに掲載されているエッセイ*1で知った歌だ。

「風説のごとく発ちゆく」、というのがかっこいい。確かに風説もどこかを出発してどこかに辿り着くものだが、「風説のごとく」として出発をたとえるのは捉えがたい。捉えがたいが、その捉えがたさこそが、ほとんど見る人もなくその場を発って、風説のように、目的地もない旅へ行ってしまう様子を想像できて素敵だ。その時間帯が夜なのもいい。

また、「夜を」はたぶん「家 を/から 出る」のような際にあらわれる起点のヲだ。(「雨の中を歩く」のような状況のヲの可能性もあるが、「発つ」という移動に関連する動詞につながっているので、起点と考えた方がいいだろう。)起点のヲは、目的語につく典型的なヲとは異質なので印象に残りやすいと思う。また、「夜を出発点としてどこかにあてもなく向かう」という状況も、どこか素敵に思える。

日本に依り韻律に倚ることの命運つひに月花を出でず

これも、同じwebページで知った歌だ。

私は和歌や短歌を見て「(知識がないなりに)いいな」と思ったりするけれど、「素晴らしい日本文化」とか「日本の美」という言葉を聞くと、一気に眉をひそめたくなる。ナショナリズムっぽいものを感じてしまうというか、他の国のものをろくに知らない状態でそういうことを語るのはどうなんだろうと思ったり、「日本」という言葉で個人が塗りつぶされてしまうように思ったりする。

そういう「日本」という言葉に名状しがたい抵抗感を覚える私から見ても、この歌は少し過激に感じる。「日本に依り韻律に倚ることの」と短歌への自己言及的な内容をなんかかっこよく書いている歌かなと思っていたら、「命運ついに月花を出でず」とくる。私の読解が間違っていなければ、痛烈に短歌(もしくは和歌?)というものを批判しているようにも思える。

(ただ、「月花を出でず」というのは文字通りのことではないだろう。しかしながら、短歌という形式が万能ではなく、そこに作者が感じているだろう限界みたいなものをそれによってたとえているのだろう)

しかしながら、それでも作者は短歌を詠み続けている訳で、「つひに月花を出でず」と言いながらそこに愛がないわけではない。きちんと読み取れているかはわからないし、歌集での実際の並び方等も見ていないので誤解している可能性は大いにある。が、あくまで私の感じたままを述べると、私はこの歌に心中のような心の動きを感じる。

 

最後に、冒頭にリンクを貼った記事において、私が50首に選んだ2つの歌の感想を書く。

十億の民しづかなる国に来て音せぬ靴を穿く冬の旅

正直なことを言えば、最初に知ったのはwikipediaだ。ただ、wikipediaの表記は「億の民しずかなる国に来て音せぬ靴を穿く冬の旅」となっている。上の表記は、現代短歌に詠われた「上海」という論文と、百首選 安永蕗子の歌という記事を参考にしているので、多分こっちの方が正しいのだろう。原典をあたれという話ですが……。

上海を訪れた際の歌らしい。当時、実際に上海が静かだったのかは知らない。だが、十億の民が静かであるというのは迫力がある。もしくは異国であるがゆえに、実際には静かでなくても、音の少ない世界に見えたのかもしれない。

日本語が堪能な人間にとって、日本の景気は言葉で溢れている訳だが、日本語が堪能ではない人間にとっては読みにくい記号の束に見えるかもしれない。そういう意味で、(中国語をある程度学んでいるにせよ)異国が言葉にあふれていない空間に見えた、というのもあり得ない話ではない。

しかしながら個人的には、実際どうだったかは別として、やはり十億の民が無言で往来を行きかう様子を想像する方が、迫力があって楽しい。上海という都市の単位で見れば、もちろんそこに十億人いるわけではないんですが。

また「静かなる国」で「音せぬ靴」を履くというのは、その土地に潜り込もうとするようなイメージを抱く。「音せぬ靴」というのは、先ほどリンクを貼った「現代短歌に詠われた「上海」」という論文によると、「布靴」という中国の靴らしい。旅先でその土地のものを身に着けるというのは、その土地になじもうとする行為のように感じる。

異国に迷い込んでしまって、その中で必死に溶け込もうとするような、紛れ込もうとするような孤独も少し感じる。しかしながら、そういう要素はあくまで「冬の旅」として冬の静けさのイメージに回収されていき、孤独よりも、静かな旅といった印象が最後に残る。とても好きな歌だ。

上述の50首にこの歌を選んだ理由のひとつは、「十億の民」という言葉に、「燃え殻のごとき雪」と同程度の強度を感じた、というのがある。強度といっていいかはわからない。迫力とでも言った方がいいのか。ともかく、短歌においてあまり使わない言葉や耳慣れない言葉を聞くと、印象に強く残る。パワーワード感とでも言えばいいのだろうか。

が、それは得てして外来語が混じっていることが多い(外来語が悪いとはもちろん言わない)。安永蕗子の歌では漢語は使われても外来語は使われないが、「燃え殻のごとき雪」「十億の民」あるいは「風説のごとく」のように、外来語がなくても強度を感じるフレーズが多いのではないかなと感じるので、その代表としてこの歌を選んだ。

 

はなびらを幾重かさねて夜桜のあはれましろき花のくらやみ

これは、安永蕗子の出身である熊本市水前寺江津湖公園の碑に刻まれている歌だ。なので、検索すると地元の人のブログとかも少しヒットする。

先ほど取り上げた「十億の民」は、「十億の民しづかなる国」で「音せぬ靴」を履くという大きなものの中に小さなものが取り込まれていくような歌だった。一方この歌は、夜桜における黒い夜と白い桜のコントラストがはっきりとした歌である。その意味では、「燃え殻のごとき雪」の温度が高いであろう燃え殻と冷たい雪のコントラストにも似ている。

夜桜のコントラストが綺麗だというのは、誰もが知っていることだろう。では夜桜について詠むとなると、そのコントラストの美しさだけではなくて、何かを付け加えた方がいいと私なら思ってしまう(歌人の歌について考えるとき、「私なら」という思考をしてしまうのは、失礼極まりないが)。しかし、この歌では夜桜の周りの情景や、桜に想いを重ねる人間の物語は、少なくともこの歌だけを見る限り明示的に表れていない。あくまで高い純度で、そして高い解像度で、夜桜について詠んでいる。

「あはれ」がひらがなで表記されるのはよくあることとして、「はなびら」「かさねて」「ましろき」「くらやみ」がひらがなであるのは、意図のあることだと思う。このひらがなが、桜の白さを描写する上で貢献しているように思うのだが、うまく表現できない。漢字と比べてひらがなは容量が少なく、空間に余裕がある。その空間の分、文字が空間を占めていない訳で、それが無地に近い白と相性がいいのかもしれない(本当か?)。「くらやみ」という言葉さえもが、どこか桜の白を表しているような気がする。

ましろき」が好きだ。現代日本語になじんだ私にとっては、「まっしろ」がなじみのある音だ。促音がないだけで、どこか典雅な響きにも思えてくる。凄い。またひらがなの効力についてはすこし書いたが、「くらやみ」をひらがなで書かれると、あまり暗闇っぽく感じない。しかしながら、どれだけ優しそうな顔をしても、それでもやっぱり「くらやみ」は暗闇であり、暗闇という漢字表記を隠しているからこその底知れなさがある。

また、この歌は「ましろき花くらやみ」であって、「ましろき花くらやみ」ではない。夜桜が夜の黒と桜の白のコントラストを持つことは先ほど書いた通りであるが、しかしこの歌では桜そのものが内包するものとして「くらやみ」が提示されている。つまり、夜桜で黒と白のコントラストが喚起されることと、「ましろき」と「くらやみ」がコントラストになっていることは微妙にズレている。この歌では、夜空の中の桜の中にこそ「くらやみ」を見ている訳で、いわば[夜空[桜[くらやみ] ] ]というような三層の構造になっている。

上述の50首に「十億の民」の歌を選んだ理由として、先ほどは言葉の強度を理由にあげた。しかし、この歌は、(「ましろき」は微妙だが)一つ一つは耳慣れない言葉でもなく、また特殊な情景や物語を引っ張り上げることもなく、シンプルに夜桜に注目する歌でありながら、ひどく精密につくられているように思う。が、その精密さについて考えるまでもなく、ぱっと見てぱっと読んでぱっと聞いて、めちゃくちゃ綺麗な歌だと感じた。物珍しいイメージが使われている訳ではないが、物珍しくはないからこそ、凄い歌なのだと思った、というのが理由だ。

まぁ、そのころ私が桜に囚われていたから桜の歌を選んだという面も否定できないけど……。

 

そんなこんなでとりあえず、先日の50首を選ぶ際に最も心にひっかかった安永蕗子の歌について、いくつか書いてみた。百首選とかも手元にあるので、いいなと思った歌はもっとあるのだが、今回はこのくらいにしておく。