日記:「新米姉妹のふたりごはん」(6)

私は古畑任三郎シリーズで言うと、2nd seasonが好きだ。

1st seasonでできあがった定型に基づいて、すこしひねりが利いていたり、深みが出ていたりする作風になっているのが、古畑任三郎の2nd seasonだと思っている。勿論、1st seasonも素晴らしいが、「熟成された」感じがすると言えば伝わるだろうか。

どうして突然古畑任三郎の2nd seasonの話をしたかというと、新米姉妹のふたりごはん6巻は、「熟成されている」と思ったからだ。

もちろん、生ハムの原木がドカンと出てくる1話から、新米姉妹シリーズは面白かったが、6巻はエピソードに幅が出てきているというか、個々の話が個々の話として各段に面白くなっている気がする。

まぁ古畑と同じ方向性で熟成されているかというと、そういう訳でもないけど。

(じゃあなんで古畑の話を始めたんだ……)

以下、気に入った話について書いていきます。

過去の感想

日記:「新米姉妹のふたりごはん」 - しゆろぐ

日記:「新米姉妹のふたりごはん」(5) - しゆろぐ

新米姉妹のふたりごはん6 (電撃コミックスNEXT)

 

 

・クリームシチュー (30話)

私はこの作品について、料理の面白さ・エンタメ性みたいなものが楽しいと毎度書いているけど、この話はそれとは別の方向にも料理の描写が面白くなっている。

このエピソードでは、「雨に濡れて帰ってきたサチが風呂から上がるまでに、サチを温める料理をつくる」と、ある種タイムリミット・サスペンスのような課題が提示され、それに沿った形であやりの料理が展開される。27ページ最上段、ミステリ漫画で証拠品に気づくときのような演出で「圧力鍋」を見つめるあやりのカットとか、本当に良い。

もちろん、時間制限があるといっても爆弾が爆発するとかでは全然ないので、真剣な顔で圧力鍋を見守ってしまう描写なんかもあったりして可愛らしい。

 

・クレープ (31話)

絵梨の妹の莉奈(結構小さい子)がやってくる話。あやりが莉奈に怖がられるも、料理で打ち解けるという筋書き。

筋書きはまぁ、新しいキャラクターが家にやってくる回としてはわかりやすいパターンだけど、細かい描写が結構いい。

莉奈がクレープの生地をおたまにのっけて、こぼさないように慎重に慎重に運ぶけど割とこぼれている描写とか、子供の料理の可愛さが生き生きと描かれている。首になんか巻いてるのも可愛い。

あやりの料理のエンタメ感も、クレープを茶巾に包んでみせるとか、子供が喜びそうな一芸をさらっとやってみせたりしていて楽しい。

あと個人的に好きなのが、あやりが年下の、割と幼げに描かれている莉奈に対して「莉奈さん」とさん付けで呼ぶところ。

ですます調で話すキャラクターだから当たり前と言えば当たり前なんだけど、子供に対して一人の他者として接しているように見える描写が好き。

 

・焼き桃アイス (32話)

篠田さんが桃を持ってきて、あやりが調理する話。

料理の描写が楽しい!というのは今更繰り返すまでもないけど、生ハムの原木が出てきたりバーナーが出てきたりやっぱり絵的な迫力があっていい。

この回の好きなところは、純粋に会話ややりとりが面白いところ。

桃太郎のせいでむかし桃を食べるのがこわかったサチのエピソード、ジュースとスープの違いを調べようとするあやり、オチで桃太郎のくだりを回収するところ。爆笑ギャグ漫画ではないので、爆笑ギャグという方向ではないけど、キャラクターが生き生きとしていてとても楽しい。

 

・オリヴィエサラダ (33話)

プリン回! (タイトルはプリン回ではないけど)

どうしてプリンって「人のプリンを食べて怒られる」みたいなイメージがついたんでしょうね。

オリヴィエサラダが純粋に美味しそうというか、食べてみたくなります。

おまけ漫画の、プリンの件では怒らないけどサチがクッキーをつくって「失敗したから全部食べた」というのに機嫌を損ねるあやり、というくだりは関係を楽しむコンテンツとして楽しい。

 

・鹿のシチュー (34話)

割と挑戦的な回。

どちらかと言えばカワイイ系のこの作品で、鹿を狩猟して加工する様子をモノローグ・台詞なしで14ページも使って描いている。それでいて作品の雰囲気が削がれていないのは流石というほかない。

 

筑前煮 (35話)

この巻は、あやりがモノローグで父に語り掛ける29話、雨の日にあやりは父を喪ったのだということが提示される30話に始まって、墓参りに行くこの回で終わる。29話は9ページなので、単行本用に書き下ろした回かと勝手に思っているが、この構成は連載時から意識してやっていたものだろう。

しかしながら、それは過去の回想をたくさん描くとか、そういう方向ではまとめられない。少なくとも現時点では、サチとあやりはそういう話をそこまでしない。

もちろんこの先仲が深まっていって、そういう話をするときが来るのかもしれないけど、それはそれとして、過去を語ること共有することだけが人間にできる交流ではない。現在を共有すること、今を共有することが、単純に過去を共有することより適切であることも多々ある。

うまく書けないけど、35話は親を出すことで、何かが変わりつつある予感のようなものを豊かに描き出している回だと思う。

あやりがモノローグで父に語り掛ける29話との対比で、サチがあやりの父にモノローグで語り掛ける描写で終わるのもとてもよかった。