日記:「ジョーカー」

ネタバレなし感想

見てきました。

バットマンシリーズの有名な悪役、ジョーカーが生まれるまでを描いた映画です。

ジョーカーの過去はシリーズでも一定ではないらしく、今回の過去もまた一つの解釈っぽいので、その辺は注意。「ないらしい」と伝聞形で書いているあたりからわかるように、私はバットマンシリーズに触れずに生きてきたので、感想もあくまで「ジョーカーはバットマンの敵でピエロっぽい見た目のなんかヤバイ奴」くらいしか知らない人間の目線で書いたものになります。

(一応、ジョーカーを見たあとにダークナイトニンジャバットマンは見たのですが。)

そんな、バットマンを知らない私がジョーカーを見るに至った一番の理由は、以下の動画にも登場する階段。

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毎日上り下りするのはかなり嫌そうな、結構長い階段で、また左右に迫るように壁があり、すこし閉塞的な印象を受けます。

ジョーカーのポスターの画像はいくつか出回っていますが、中でもジョーカーが階段の上で踊っている最中、上体をそらした一瞬を切り取ったものが一番好きです。視界を塞ぐように左右に迫る街の壁、そんな空間で踊るジョーカー、金色に輝く夕暮れどきの光。最高ですね。

この階段は作中に何度か登場しますが、ジョーカーになる前の主人公が夜に階段をのぼっていく描写とジョーカーになったあとの主人公が踊りながら階段を下りていく描写の対比は最高です。

 

全体的な感想としては、割と娯楽映画としてつくられているな、と思いました。

ジョーカーが赤いスーツを着込んで登場するシーンに、「うおおおおおおおおおおお」と盛り上がる、みたいな感じで私は楽しんでしまいました。

なんというか、観客は主人公がヴィランになることを知っている訳で、それが保証されているからこそ、ある種の破滅がわかりやすいカタルシスになり得る作りになっている。

(そのカタルシスを問題視する人の言いたいこともわかる)

ただ、一応鑑賞上の注意として、私はひどい想定をしまくっていたので意外と普通に楽しく見られたのですが、序盤の描写は割と生々しく、病気等を理由にひどい扱いを受けたことがある人は鑑賞する上でそれなりに注意した方がいいとは思います。

以下、ネタバレ。

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(どうでもいいんですけど、はてなブログAmazonの商品画像貼れなくなってますか?)

(いつも、ネタバレ予告からネタバレ区間までのクッションとしてAmazonのリンク入れてたので割と困る)

 ネタバレ感想

まず、感想を漁っていてびっくりしたところについて書いておく。

作中中盤?あたりから主人公のアーサーが隣人のシングルマザーと恋仲になる描写があって、で、終盤の入り口あたりで妄想だったと発覚するくだりがある。そのくだりについて「アーサーの孤独感をあらわすためにはシングルマザーとの描写は余計だった」みたいな感想を結構見かけて、

「え、もしかしてあれが全部妄想だったって伝わってないのか?」とびっくりした。

この作品にはいろいろ解釈の余地があるのだが、そこは解釈の余地じゃない。びっくり。

で、解釈の余地がある話としては、自身の妄想に気づいたアーサーが隣人を殺したのか否か。私は、アーサーは自分にひどくしなかった同僚を見逃したり、割と本人なりの整合性を持って殺人をしている印象があるので、わざわざ隣人を殺してるなんて私は全然思わなかった。が、ここについては隣人のシングルマザーを殺しているということを確定的な事実として感想を書いている人がいて、「へー」と思った。

このくだり、アーサーの妄想癖に関しては最初の方で提示されていたし、いくら何でも流れがおかしいと思ったので、「この人と仲良くなってるっていうのは妄想なんだろうな」となんとなく察しはついたけれど、一番つらいのは母親と同じ過ちを繰り返していたという部分。悲劇の再生産はつらい。

 

この作品のジョーカー、たぶん既存のジョーカー像とは違う部分も大きいんだろうなぁと思う。

(鑑賞時点でバットマンシリーズに触れていなければ、現時点でもジョーカー出演作品はダークナイトニンジャバットマンしか見ていない私が言うのも、知ったかぶり案件だけど)

その上で、電車で警官から逃げるくだりは、「ジョーカーの片鱗」っぽいものが見えてとてもいい。いかにも曲者、いかにも厄介な香りがする。それでいてあの時点でのアーサーと断絶している訳でもなくて、アーサーに宿るジョーカーの萌芽みたいなものを感じさせる。ピエロのメイクの上にピエロの仮面を被るというのも、”らしい”。

そういう萌芽はあるんだけど、やっぱり最後の最後のアーカムの描写まではアーサーはジョーカーにわかりやすく接続されない。

ネットでは、ジョーカーを乗せていたパトカーに突撃した救急車を運転手こそ、真のジョーカーなのだという説も出ているらしい。直接的にトーマス・ウェインを殺しに行く手際は、確かにこの人の方がヴィランにふさわしい感じもするし、そういう説が出てくるのもわかる。

わかるけど、行間を埋めたり隙間を想像したりするのが好きなオタクとしては、このあとアーサーの犯罪の手際がよくなったり、ある種「個人的な動機」で犯罪を起こすアーサーの犯罪の方向性がここから変わっていく様子を想像しても、それはそれで楽しいなぁと思う。

 

トーマス・ウェインについて。

バットマンシリーズについて全然知らない状態にで見に行ったので、ブルース・ウェインバットマンということも知らなければ、トーマス・ウェインがその父親であるということも私は知らなかった。

そんな感じなので、最初、トーマス・ウェインについて「汚い金持ち」くらいの気持ちで受け取ればいいのかなぁと思っていた。作中でアーサーの母親の妄想に困らせられていた被害者なのではないか、という側面が出てきてからも、「まぁ金持ちであることには変わらないし……」くらいの気持ちだった。

しかしながらバットマンについて色々知ってから行動を振り返ると、自分の会社の社員を殺した犯罪者に対して「素顔を晒せない臆病者」と罵るのはそこまでおかしなことではないし、それが貧困層からの反発を招いてしまったのは報道の切り取り方によるものかもしれないなぁと思ったりした。アーサーを殴ったことについては、言わずもがな子供を守ろうとする父親の行動として当然と言ってもいいかもしれない。

(まぁ殴って下手に刺激するのが賢いかと言えば、よくわからないんだけど)

とはいえ、ではトーマス・ウェインを完璧な善人として描いているかと言えば、やっぱりそうではない気がした。そもそもアーサーがトーマスに接触する場面、外ではデモが起きていて、中では富裕層が優雅に過ごしているという描き方は、トーマス・ウェインがそういう構造の中にいて(彼の資質がどういうものであれ)そこから逃れられてはいない、という描き方なんだと思う。

 

で、デモの話が出たので、そこら辺の話に触れてみる。

私はこの作品は、「持たざる者だからと言ってつながり合える訳ではない」という様子を描いている側面があるのかなーと思った。富裕層に対するカウンターとしてのピエロ、その象徴そのものであるアーサーは、確かにデモに参加している人や貧困層、生きづらさを抱えている人から支持されている。

でも、彼らはアーサーのことを見ていない。

彼らにとってアーサーはある種都合の良い象徴であり、祭り上げる神輿に過ぎない。

私はそういう風に受け取っていたから、アーサーがパトカーの上に立って笑顔を作って見せるシーンに対して「むなしい」という気持ちが勝った。あのシーンは、冒頭、ピエロのメイクの最中、メイクが崩れて涙のように頬を伝うシーンのリフレインに見えた。

(だからこそ、ラスト、アーサーは自分のジョークについてどうせ理解できないさ、と言うのではないか。)

それに関しては、反対の見方もできると思う。つまり、パトカーの上で笑顔をつくるシーンは心では笑っていない彼が笑顔をメイクでつくる冒頭の対比とされていて、冒頭にあった涙がなく、今度こそ本心からアーサーが笑えているのだ、と解釈することもできる。

私はあのシーンは「むなしい」シーンなのだと捉えた上で、しかし、それを読みかえることができるというのがこの作品の肝だと思う。あのシーンこそまさに「悲劇でありながら喜劇として読みかえる」ことができるシーンなんだと、私は受け取った。

 

色々な人が触れていると思うから、私が今更語ることでもないが、この作品には「どちらにも解釈できる」ような要素がたくさん登場する。

こういう要素についてどう捉えるか。個々に、「ここはこういう解釈をして」という話ではなく、「どちらにも解釈できる」という描き方そのものをどう捉えるか、ということについて少し考えた。

私なりに考えた結果、「悲劇を喜劇に読みかえる」というテーマとストレートにつながっている、というのが私なりの結論。

私はこの映画に対して、「主人公がヴィランになると知っているからこそ、転落がカタルシスにつながる」ということを書いたが、これは視点によって物語を読みかえるということだろう。

描かれているのは間違いなく悲劇で、しかしながら、その悲劇をどこかで諦めることで、アーサーはジョーカーになる。悲劇は喜劇になる。むなしさは笑いに変わる。

そういうアーサーが自分にとっての世界を解釈を読み替えていく作品だからこそ、この作品は、観客にも解釈の余地を与えるのだと思う。

 

私は最初に書いた通り、階段の映像が本当に素晴らしい作品だと思っているけど、それは単に綺麗というだけではなくて、あの階段がこの作品のすべてを象徴していると思うのだ。

階段は視点によって見え方が変わるものの象徴だ。

あんなに苦しそうにのぼっていた階段を、軽やかに踊りながら降りていく。

それはまさしく悲劇を喜劇に読みかえるということだ。

 

 

この作品について書けることはもっとたくさんあると思う。しかしながら、そんなことではいつまで経っても完成しないし、私が書くのはこんなところに留めておきたい。だいたい、よい感想は誰かがもう書いているだろうし。