日記:公園をめぐる

ずっと前、Kanonというゲームをプレイしたとき、主人公たちがデートに行くと言って、ふだん日用品を買っている商店街やちょっと遠くにある公園に向かう様子を見て、なんて世界が狭いんだと窮屈に感じた覚えがある*1

新しい場所を出す為に背景が必要なゲームだから場所をあんまり増やせないという事情のせいかもしれないし、どちらかと言えば大きい町が舞台ではないことに由来するのかもしれないし、はたまた高校生くらいのデートはそんなものなのかもしれない。(私はろくにデートをしたことがないからよくわからない。)

しかしながら、じゃあどこまで行ければ世界が広いのか、窮屈ではないのかということを考えてみると、よくわからない。東京に行ければ世界は広いのか。海外旅行に行けたら世界は広いのか。そう考えると、自分が持っている世界がひどく窮屈な気がしてくる。米津玄師の歌詞だったか、「どこにも行けない」という歌詞がやたら出てくるみたいな話を取り上げている記事があった気がする。「どこにも行けない」気分とは、こういう窮屈感を指すのだろうか。

どこかに行けるということはどういうことなのだろう。

 

 

これはずっと前に抱いた感傷だが、今まさに、私はどこにも行けないような窮屈な気持ちになっていた。こういう気分になったとき、私はきまって小説を書くか、近場の公園をめぐる。こういう気分になるのは久しぶりだった。

今小説を書くと、人間が人間と出会うところから始まる小説を書いてしまう気がした。尤も、私が書くのはもっぱら百合という、人間と人間の関わりあるいは関われなさについて描くジャンルなので、人間と人間が出会う話を書くことになってもそれはそれほど不自然なことではない。

しかしながら、今そういう小説を書くと、自分が他人を希求していることを認めてしまうような気がした。だから書きたくなかった。それは、私が人間と関りを希求していることの裏返しでしかないが、とにかく私は近場の公園をめぐることにした。

私の世界もまた狭いので、公園は十分に特別な場所なのだ。

あるいは、私が公園で遊ぶ年齢ではなくなかったからこそ、そこに価値を覚えるのかもしれない。

 

最小の公園とは、どんな公園だろう。公園を公園たらしめる最低条件とはどんなものだろう。

わかりやすく遊具がいくつもあれば、それは公園らしい公園と言えるだろう。しかしながら、最近は、(私が住んでいる地域だけかもしれないが、)公園らしい公園は少ない。すべり台があれば良い方で、ベンチだけが並んでいて、それが公園だと主張している空間も珍しくない。それでもたいていの公園には、水飲み場とベンチくらいはある。それが公園の最低条件なのかもしれないが、やっぱり遊具の一つくらいはあった方が嬉しい。別に遊具で遊ぶかと言えば、そういう年齢でもないけれど。

とはいえ、私はそうした「小さい公園」が嫌いではない。特に、すべり台が他の遊具と一体になった遊具が一つだけあって、それだけの公園が好きだ。すべり台が一体になった遊具は、のぼる場所があったり、屋根がついていたりするが、どういう名前で呼べばいいのかはわからない。一体型の遊具として説明しやすいものでは、ジャングルジムとすべり台が一体になった遊具を見たこともある。

ポイントは、何かに押し込められるように、「小さい公園」が存在することだ。その有様が、どうしようもなく好きだ。チェックポイントのようだと思う。だから巡りたくなるのか。

子供たちがいる時間帯は子供たちの迷惑になるし、そもそも子供たちがいない無人の公園の方が好きなので、たいてい私は早朝や夜に公園をめぐることが多い。

 

そんなことを考えながら公園をめぐった。公園をめぐると言っても、別に、めあての場所がある訳ではなかったりする。なんとなく公園があったような気がする場所に向かって、その近くをぶらぶらして、その先に知らなかった公園を見つけたりして。

そして、道に迷った。

薄暗い住宅街をさまよって、よくわからないキャベツみたいなものが育っている畑に行き当たったりして、そういう道の末にビルの明かりを見つけると、不思議な安心感がある。町明かりを頼りに大通りを出て、その先にいつも見知った店の明かりを見つける。見慣れた景色、どうでもいい景色、どうしようもない景色、それが一瞬、「故郷」という言葉を冠するにふさわしい景色であるかのように錯覚する。

私が宛てもなく公園をめぐるのは、その瞬間に出会うための儀式なのかもしれない。

 

買っていないゲームの公式サイトをひたすら見たり、攻略サイトを見るのが好きだったりした。それでいて、買ってみるとすぐに飽きてしまったりした。「見渡す限りの世界がある」みたいなキャッチコピーのゲームの公式サイトで見られる断片的な世界にわくわくして、買ったら、移動するのが面倒になってやめてしまった。確かに空間は広かったが、空間が広いということは、必ずしも常に景色を見て楽しいとかそういうことではなかった。しょせん、私は冒険を断片的に拾い読みして、勝手にわくわくしていただけだった。

ノベル系のゲームのOP映像を見るのも好きだ。冒頭で提示したKanonのOPも大好きで、何度も見返していた。静止画を主体にした映像が好きというのもあるが、各キャラクターの台詞で物語の断片が提示されたり、雪が降る演出とともに学校や公園といった背景が映される様子になんだかわくわくした。実際にプレイしてみると、冒頭で述べた通り、舞台が閉じた場所であるような印象を受けた。

違う話を並べてしまったような気がする。

旅に行きたいと思うことがある。しかしながら、旅に行ってそこを観光客としてめぐるのではなく、そこにいる人になりたいんじゃないかと思う。どこか、ここではない場所の住人になりたいという感傷が、私の旅に行きたいという気持ちなんじゃないかと思う。だから、実際に旅に行くことは全然ない。口だけだ。そして、もし、ここではない場所の住人になったとして、私はまた勝手に閉塞感を覚えるのだろう。

どこかに行きたいと思っている。現実でも、フィクションでも。なんでもいい。

どこかに行きたいと思っていて、そのどこかで何がしたいのかはよくわからない。死に場所を求めているのかもしれない。今すぐ死にたいか、というと、そういうことではないけれど、死ぬのにふさわしい「どこか」に行きたいという気持ちは常にある。

そのどこかは、実空間における場所だけの話ではない。凄い映画を見たとか、凄い小説を読んだとか、あるいは書いたとか、そういう精神的なものも含めて、辿り着いた感じを求めている。

 

私はどんな場所に辿り着けば満足できるのだろうか?

全然わからないので、当面は公園をめぐるくらいのことしかできない。

*1:Kanonという作品自体は割と楽しんだので、その点については誤解しないでほしい。感想記事もある