日記:言葉は魔法だけど無力を昇華するのは難しい

お屋敷に帰ると、祖父がいつだって出迎えてくれた。彼は私を連れて庭園を歩きながら、お屋敷が賑やかだったころの話をするのが好きだった。お稽古や勉強ばかりで退屈していた私は、お屋敷に帰る時期が近づくと、祖父の話が楽しみで仕方なかった。

庭園はほとんど朽ちていて、一区画、黄色い薔薇が咲いているのみだ。

それでも祖父が話をしているときだけ、私には花々が咲き乱れる様子が目に浮かぶのだ。執事がこっそり摘み取って、女中にプレゼントしていたというスズラン。庭師が最も神経を払い、そして愛していたジギタリス。そして貧乏だった祖母が迷い込み、少年だった祖父と会ったという薔薇園を彩る数々の薔薇。私は祖父に花の名前を聞いては頭のなかでしっかりメモをして、いつか素敵な人に出会ったら、その人にぴったりの花束を贈るのだと息巻いていた。

なんて。

 

さて、上の文章が水準については敢えて語らないけれど、自分たちの生活から遠いもの、ファンタジー、メルヘン、夢がある世界、遠い国の物語、歴史の物語、そういうもので人を引き込むのは言葉の得意とするところだろう。読者が片付いていない薄暗いアパートの一室にいたって、言葉はひとときの夢に我々をいざなってくれる。

しかし、そういった夢の世界に連れ去るのではなく、人の持っている無力さをそのまま描いて、救いを描くタイプの物語は難しい。無力さの届く範囲の人間は、きっと自分には救いなんて訪れないと思っているからだ。

では無力というものはどうやって昇華していけばいいのだろう。

そういうところにすごさのある一種の言葉を見つけたので紹介してみたい。

 

vocaloidという音声作成ソフト?を用いた楽曲です。

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歌詞はこちら:piapro(ピアプロ)|テキスト「命に嫌われている。」

言葉の話なので歌詞の話をするけど、この歌は冒頭で「生きろ」というメッセージを否定する。

 

「死にたいなんて言うなよ。
諦めないで生きろよ。」
そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。

 

生きるということに意味を出せない人間、自分は死んでもいいような人間が、だれかに対しては生きてほしいと願うことに対する批判的な目線が見て取れる。この批判というのは、作詞者自身に向いているかもしれないし、同じ気持ちを抱いている誰か、楽曲のターゲットに向いているのかもしれない。

 

生きる意味なんて見出せず、無駄を自覚して息をする。

 

自分が死んでもどうでもよくて
それでも周りに生きて欲しくて
矛盾を抱えて生きてくなんて怒られてしまう。

 

自分が生きることを肯定できない人間が、それでも他者には生きてほしいと思う。

それは身勝手かもしれない。身勝手であるのにそういうことを願ってしまうのは無力でどうしようもない。

その無力がどのように昇華されるのかといえば、以下のようになる。

 

君が生きていたならそれでいい。
そうだ。本当はそういうことが歌いたい。

それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて
殺してあがいて笑って抱えて
生きて、生きて、生きて、生きて、生きろ。

 

結局、最初に批判されていたメッセージであるはずの「生きろ」という言葉にたどり着くわけだが、「そうだ。本当はそういうことが歌いたい。」という一節がとても上手だと思う。「そういうこと」をここまで歌えていないという事実が、単に生きろと叫んだだけではどうしようもないことへの自覚としてあらわれている。そこに理性的な解決がないことへの自覚も十分に示した上で、歌いたいから歌う、という単純な帰結によって「生きろ」という言葉につながっていく。

「僕らは必死に生きて」とあるように、生きろという言葉の対象を自分にまで広げることによって前半の身勝手さを和らげているものの、生きている意味を見いだせず生きることを歌う矛盾は解決されていない。それなのにどうしてかすっきりと聞けるのは、音楽の効用もあるだろうが、さんざん批判的な視線を見せてきた人間が単純な願望を吐露することへのカタルシスによるものかもしれない。

この歌に対して、俺と同じ印象を抱く人間がどれだけいるかはわからない。しかし個人的な印象として、この歌は無力さを無力のままにしたうえで作品として昇華しているように見えて、凄いと思う。

 

下は、友人が書いたブログ記事で、これも無力感みたいなものが綺麗に昇華された文章で凄いなぁと思ったのがこの記事を書いた経緯です。経緯なのですが、作品としてではなく書き連ねられた文章なので、詳細に引用されたりするのは嫌かなと思い、ちょうど最近「いいな」と思った歌を使ってこういう話をしてみました。

motoietchika.hatenablog.com