日記:「日本の色」という言葉に疑いの目を向けてしまう
和色、伝統色、などで検索すると、いかにも美しい日本語といった感じの色の名前を紹介しているページに行き当たる。
こういうところ → 日本人の美の心!日本の色(伝統色・和色)
濡羽色、なんかが有名だろうか。いかにも風情がある色の語り方だ。
こういうものを見て、素直に、「日本にはたくさんの色があったんだね」と思えない。
まず出典はどこだ、ということが気になる。次にそれがどれほど定着していたか、ということも気になる。
例えば、どこかの歌人が一回そんな風に色を例えたとして、それは有名な1つのフレーズにすぎない。それを、「日本の色」みたいなくくりで紹介するのは、とても不誠実なことだと思う。
なんて難癖をつけたけど、上のサイトは結構そういうかゆいところまで説明がついている。使われ方としてこういうのがオーソドックスだった、とか、この作品名に色の名前が残ってる、とか。
一方で、もしこういう伝統色が本当は伝統なんかじゃなかったとしても、些細な問題なのかもしれない、とも思う。人々が「和」に抱いているイメージをかき集めて和っぽい何かを作り出したら、それこそが現代における「和」だ。
例えば、1つ1つの色に、やけにオリジナリティのある名前をつけた色鉛筆がある。
→ 500色図鑑|FELISSIMO 500色の色えんぴつ|フェリシモ
これに伝統はないが、楽しい趣向だ。こういう趣向を真似て、実際には使われていなかったがいかにも昔使っていそうな、そういう「和」っぽいイメージの名前を色につけたとして、きっとそれも楽しい趣向になる。
むかしこんなコンセプトの同人誌を見つけた。
(インターネットの告知を見つけただけだけど)
偽物の京都に伝統なんかあるはずもない。しかし、そこに描かれているイメージは、伝統を持ったそれと共通している。それが嘘でも、そこにある力は否定できないはずだ。
まぁ伝統色は意外と使われていたっぽいので、この記事はやっぱり難癖なんだけど。