日記:「隻眼の少女」
しばらく前からずーっと読んでいたけど、1部が終わって2部に入ったあたりからは一気に読んだ。
舞台は古式ゆかしき謎の一族がでてくる謎の屋敷。探偵役は母親から探偵業を受け継いだ隻眼の少女、御陵みかげ。初めて事件に関わることとなるデビュー戦。
ワトスン役はたまたま犯人に仕立て上げられた大学生。彼の境遇はというと、浮気がバレた父が母を殺し、そしてふとした瞬間に彼もまた父親を突き落として殺してしまうという悲惨なもの。幸か不幸か父の死は事故として処理されたが、彼もまた死のうとして村を訪れ、事件に巻き込まれる。
色々な意味で、探偵役とワトスン役が今後どうなっていくか、というところも楽しめる作品だった。
探偵役をつとめるみかげは「不整合」から推理を行う。
この作品で重要な問題は、「犯人による捜査を攪乱するための証拠と本物の証拠をどう見分けるか」というところにある。「この時間に殺人が可能なのはこの人だけだった」「この空間に侵入できるのはこの人だけだった」という不可能状況を中心にした事件は犯人を明確に特定できるかもしれない。アリバイや鍵を中心にしたトリックはこういう綺麗な推理をつくりやすい。しかしながら、事件現場の何げない証拠から犯人を特定するタイプの推理では、「犯人がわざとそういう証拠を残しただけではないか」という可能性が否定し切れない。
本作はそういう問題について1つの誠実な回答を示しているので、そういうややこしいことが気になる人は読んでみるといいと思う。(しかしながら、まだ突っ込める余地はありそうだとも思う)
この作品の真犯人はかなり優秀だが、その凄まじい犯行も、容疑者全員にアリバイがなかった、という背景に支えられている気もする。その点は玉に瑕なのだろうか、それとも俺が犯行の全貌について読み逃しているだけか。
一部と二部にまたがって発動する大仕掛けはさすが麻耶雄嵩って感じだけど、俺は短編作品のほうがやっぱり好きかもしれない。
二部に入るにあたって20年近く時間が経過するのですが、そういう時代の流れによって変化する一族とか、探偵とワトスンとかの描写も魅力かも。感想をあさったら桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」を搦めて語っている方がいたのですが、俺も読んでいてなんとなく「赤朽葉家の伝説」を思い出しました。
一部はかなりつらかったけど、二部まで読んじゃうと割とすっきりしたかなー。
ネタバレなしで語れる作品ではないのですが、敢えて語らずに終わります。
日記:アニメ「やがて君になる」2話
見ました。
各話感想リスト
佐伯沙弥香からの「ずるい」に始まり、小糸侑の刺すような「ずるい」が続き、再び小糸侑の調子を狂わされたような「ずるい」で終わる。そんな話。ずるい女、七海燈子。
OPはたくさん花がでてくる。
私は花言葉で意味づけをすることにすこしだけ抵抗があるんだけど、そういうことを考えたほうがいいんだろうか。そういう部分について知りたい人は下記のブログを参照するといいと思う。
やがて君になる アニメOPの花について - スパイダースノーマット
他の部分についてはネタバレありということで後述します。
本編みどころまとめ(原作からの追加)
・七海燈子と並んで歩く佐伯沙弥香
小糸の脳内イメージ。原作では沙弥香が一歩後ろを歩いているように見えるが、アニメでは隣にいる。
・OP前に小糸を見つける沙弥香
佐伯先輩に責任者を任せればいいのにと悩む小糸→それを見つける沙弥香→沙弥香と話す七海、みたいな感じで展開がスムーズになってる?
・体育の授業中にわざわざ髪をほどいて、沙弥香に結びなおさせる七海燈子
地味に重要?な原作からの追加シーン。わりと習慣的にお世話されているのかもしれない。ただ授業中一瞬試合から抜けるくらいで髪をほどくのはどうしてだろう。拗ねてる沙弥香と話すに際して七海なりに向き合った結果?
・電車の風で舞う葉っぱが桜に変わる
正直、演出が過剰にも見えるけど、こういう具体的なモチーフを使った演出が今後どう効いてくるかは気になるところ
・「何も感じなかった」の後に、また例の踏切を通る描写
原作からの追加。
小糸の表情は何も思っていないのか、何も思っていない自分を眺めているのか。
・集合写真前の小糸のモノローグ
原作にはない。キスをしたあとに再び「ずるい」と思うまでの流れを自然にするためか、もう一度「先輩は特別を知らないんじゃないか」という期待をする小糸のモノローグが追加されている。原作より期待が重い感じしますね。
・水は疎外感のイメージ?
1話でも足元を水が満たすイメージが疎外感の演出として機能していたけど、2話でも海に沈むイメージがそういう演出として機能している。
「私は星には届かない」という1話のタイトルをふまえると、星から遠い場所のイメージとして海の底があるのかもしれない。でもラストのきらきらは、太陽の光が海面を照らしたような光にも見える。
アニメ版を見て、原作の侑の心情はもっとフラットに見えたなぁとかやっぱり思っちゃうところもあるけど、状況をことこまかに見ていくと、小糸侑は恋を知らないなりに恋に憧れていて、だからこそ間近で恋を知っていく七海燈子の様子に動揺というか、なんらかの感情を抱いているんだろうなぁとも思う。
ここからは漫画4巻までのネタバレ有り
続きを読む
日記:「南極料理人」
言い知れぬ幸福感に包み込まれる映画でした。
中盤、季節が冬になったあたりで次々と発狂していく隊員の様子にげらげら笑ったりもしたけど、基本的には、食事を手掛かりにしてどこまでも日常を描いていく作品だったと思う。
主人公の西村は南極観測隊員、調理担当。
でも、本当は別の同僚が行くはずで、本人は南極に行くなんてこと考えてすらいなくて、不服そう。観測隊員も奇妙奇天烈なメンバーばかり。
俺はこういう映画を見始めるとき、きまって「あと二時間俺はこれを本当に見続けることができるのか? 本当に?」という謎の警戒心を覚えてしまう人間なのですが、実際に見始めたら一瞬です。
でも総じて細部やこまごまとしたやりとりが面白い作品だったから、うまく感想が書けない……。
見てるほうも、最初は、「絶対こんな奴らと閉鎖環境で暮らしたくねー!」って思うと思うんですよね。変人ばっかだし。トイレすら丸見えだし。
せっかく伊勢海老があったのに、刺身とかにすればいいのに、隊員たちがエビフライが食べたいというからエビフライをつくったら「刺身だったな」と文句を言われたりする理不尽さだったり。(見てる側は笑えるシーンだけど)
でも、ある隊員の誕生日あたりから、少しずつ風向きが変わってくる。火力が足りなくてお祝い用の肉を焼けないから、外に出て肉に直接火をつけて焼いて、そんなことをしてるうちに楽しくなってきちゃって燃え盛る肉を持って走り回るシーンとか。冬が来る前に氷上で野球をするシーンとか。(しかも、白線の代わりにシロップをかためて球場をつくるあたりも楽しそう)
終盤にワンカットで、朝の食卓に人が集まってごはんを食べるまでの様子が長々と写される。そのシーンにたどり着くあたりには、終わっちゃうのかぁと本気で寂しくなっているはず。俺は寂しかった。ほかのシーンで描かれるのはあくまでエピソードなんだけど、このシーンは本当にただの日常の一風景を切り取っただけのシーンになっていて、それがものすごく愛おしい。
このシーンがなんで愛おしいのかといえば、確かに彼らのやりとりがほほえましいというのもあるのだけど、やっぱり細かい描写の積み重ね。細かい描写の積み重ねが凄くいいんだ。わかったか? 見なきゃ始まらないぞ。
このシーンで特に好きなのが、箸入れから堺雅人が箸を取り出す一瞬の描写です。たぶん長さとか色にばらつきのある箸をごちゃっと箸入れにいれてるから、揃えるまでにかちゃかちゃやって箸を探す描写がある。現実で、自分の立場でそういう状況に遭遇してもただうっとうしいだけなんだけど、映画というフィルターを通してみると「生活の生っぽさ」が途端に愛おしく感じるようになる。
同じ監督の「横道世乃介」も同じような性質の作品なので、感想を書けずに終わってしまったが、今回は頑張って書いてみた。
あ、髪を伸ばしっぱなしの堺雅人がとてもよかったです。
この先ネタバレ要素ありで箇条書き
続きを読む
日記:「ルポルタージュ1巻」
恋愛をするものがマイノリティとなり、現代的な意味での交際を”飛ばした”、純粋なパートナーシップとしての「飛ばし結婚」が一般的になった社会が舞台。その象徴である「非・恋愛コミューン」をテロリストが襲撃、多数の被害者が出る。
青枝聖は記者として、被害者のルポルタージュを担当することになる。
設定に脱恋愛的要素を持っている作品は、結局恋愛は素晴らしい、みたいな話に帰結してしまう印象がある。この作品は1巻の時点で、作中人物が恋に落ちたり、恋愛を飛ばした結婚という形に疑問を呈する描写こそあるものの、そう単純な話にもならないだろうな、という予感がある。
かといって、脱恋愛的な設定をそのまま賛美するような話でも勿論なく、難しいものを物語のなかで溶きほぐしながら、安易に単純化せずに描き切ってくれそうな感じがする。そういう期待がある。
帯にもある「私は今まで手触りを軽視していたのだとわかった——」という言い回しさえ、とても慎重なもので、それでいて的確になんらかの事実を突いた一文であると思う。
絵理沢の家庭は「飛ばし結婚」の先進的な成功例として(そんなに大きい記事ではないにしても)取り上げられていたが、個人が象徴とされることの恐ろしさみたいなことについて想いを馳せた。
象徴になってしまうと、象徴には象徴としてのふるまいが求められる。その圧は、水面下にしかないものであっても、やはり恐ろしい。
絵理沢夫婦の間にある取り決めというのも、そういう圧があったのではないかと邪推してみたり。単に子供の存在が大きかったのかもしれないし、人と違うことをしたがゆえの世間体があったのかもしれないので、やっぱり邪推にすぎないけれど。
以下、ネタバレ少な目の箇条書き
続きを読む
日記:アニメ「やがて君になる」1話
見ましたか? 俺は見ました。
あなたも見ましょう。
あらすじとかは書かずに、原作との差異やアニメを見て思ったことについてざっと書いていきます。
各話感想リスト
露骨に小糸の主観視点で映像をつくっている部分とかあって面白かったですね。
主観である、と判断する基準はカメラの揺れ方とかに由来するところなので、実はアニメならではの演出なのかもしれません。
瞼が閉じる描写とか視界がかすむ描写とかなら漫画でもよくありますけどね。
全体的に、原作よりは、小糸侑の感情を強調するような描写が多くなってましたね。
冒頭のモノローグにしても、
少女漫画やラブソングのことばは キラキラしてて眩しくて 意味なら辞書を引かなくてもわかるけど わたしのものにはなってくれない(原作1巻p.3)
から
少女漫画も、ラブソングの歌詞も、わたしにはきらきらとまぶしくて、でも、どうしても、届かなくて、意味なら辞書を引かなくてもわかるけど、わたしのものにはなってくれない
と「どうしても、届かなくて」のあたりが恋に対する小糸のスタンスを明示するようになっていたり。
告白に遭遇したとき息を漏らす描写とか。
教室での心情描写的なイメージ映像で足元が水に浸かる描写とか。
「だって今まで好きって言われてどきどきしたことないもの」という先輩の言葉に、自分のスカートを握る描写とか。
声がつくことによって声が震えていることがわかったり、映像として漫画のコマとコマの間を自然に埋めたら自然とそうなったりということもあるでしょうが、やっぱり全体としては小糸が感情を表立って見せるような描写が多かったように思います。
声がついて印象的なところと言えば、「本で読む歌で聞く恋はきらきらしててわたしだってそのときになれば羽根が生えたみたいにきっとフワフワしちゃったり」というモノローグが本当に期待とわくわくした気持ちに満ちた演技で、あー小糸、あー小糸、という感じになったり。
あと、描写としては漫画と変わらないところですが、気づいたこと。漫画を読んでいたときには小糸のほうに肩入れしていてあまり先輩に何が見えていたのかということがわかっていなくて、例えば、相談しようとしている小糸の意図を見抜く場面。
あの場面は、わざわざ先輩の話を遮ってまで大したことでもない質問をしたり、お手伝いの身で気を利かせて(おそらくいつも)お茶を入れるような小糸がそれにやっていなかったり、小糸がいつも通りじゃないんですね。
でも、基本的には普通の声で世間話をしていたり、モノローグの切迫した声と違って、表面的には普通そうにしている。
こういうことに気づくスマートさは、さすが七海燈子って感じがします。いや、アニメ見るまで気づかなかった俺が観察力のない馬鹿というだけかもしれませんが。
あと漫画と違う描写だと、道案内をしてくれる先輩の意図に一瞬ついていけず突っ立ってる小糸に、ジェスチャーで意図を伝える先輩のくだりとかはちょっとコメディタッチでよかったですね。
先輩の感情に関する部分だと、特別という気持ちがわからないという小糸に、「わからない?」と先輩が聞き返すセリフが追加されています。あくまで「優しい先輩」として話す声に比べて、このときだけ露骨に感情があらわれていますね。
あと、生徒会室に初めて案内されたときの描写でやたら風が吹いていましたが、あれはなんなんでしょうかね。なんか特別な出会いを強調するような演出でそこはちょっと解釈違いを起こしているかもしれない。俺の解釈が正しいわけではないので全然問題ないのですが、個人の感想として。
小糸が告白されたときの、桜が舞う描写とかとなんらかの対比があるんでしょうかね。ただ単にアニメ的な見せ場をつくっているのかもしれませんが。
以降原作6巻までのネタバレあり
続きを読む
日記:「図書館の殺人」
平成のエラリー・クイーン青崎有吾のデビュー作「体育館の殺人」から連なる裏染天馬シリーズ4作目の感想です。
「体育館の殺人」は「今ミステリが読みたいならこれを読め」と言っても良いほど、エンタメ・ミステリとしての完成度がすこぶる高い作品なのですが、この「図書館の殺人」はただのミステリというだけではなく、青春ミステリとしての完成度が本当に高いです。「図書館の殺人」でキャラものとして一気に化けたな、という印象です。
ネタバレにならない範囲で終盤の文を引用すると、「涙が出そうになったが、口元はなぜかほころんでいた」という一文にみられるような絶妙な感情を喚起する探偵の推理シーンは必見です。なんともいえないぞわっとした気持ちになります。
ミステリ面での面白さは、やはりダイイング・メッセージの内容を一切推理しないのに、ダイイング・メッセージが書かれたという事実からいろいろと推理していくというちょっと倒錯した推理の手順にあると思います。しかしこれはもっともなことで、ダイイング・メッセージは犯人を特定する「証拠」にはなり得ません。そのためミステリ作品ではダイイング・メッセージを扱う際には別の証拠を持ち出すことが多いわけです。しかし決定的な証拠にならないからといってダイイング・メッセージの中身を(最後の最後まで)無視してしまうというところに探偵の(ひいては作者の)性格が出ていて面白いですね。
これについては、作者の青崎氏もツイートを行っています。
『図書館の殺人』の謎解きでやりたかったことが2つあって、①消去法の条件にアリバイを使わないことと、②ダイイングメッセージの解釈を徹底的に無視しつつすべての推理にダイイングメッセージを絡めること。①は『Zの悲劇』が好きだからで、②はメッセージの解釈があんまり好きじゃないからです。
— 青崎有吾 (@AosakiYugo) September 11, 2018
ここで挙げられている一つ目の「消去法にアリバイを使わない」というのも面白いところですね。アリバイは露骨に推理の手がかりになることがわかってしまいますが、そうではない特徴で犯人の特定を行う際は、「どの特徴が犯人特定の証拠に使えるのか」ということをまず考えなければいけないので、その分推理できると満足感があります。
また作中作として登場する「本」の使い方が素晴らしいです。「図書館の殺人」というタイトルに恥じない、一種のビブリオミステリとしても秀逸な作品だと思います。たった一冊の本に詰まったちょっとした青春の1ページと、それが「殺人」に巻き込まれてしまったがゆえに起こる物語。そういう部分の完成度も素晴らしいです。
そんなこんなで素晴らしい作品です。読みましょう。
この先ネタバレがあります。
続きを読む
日記:錠剤
昔から嚥下が苦手だった。具体的には、中学生くらいまで錠剤が飲めなかった。
錠剤の代わりに粉薬を処方してもらったり、砕いて飲んだりした。
ものによるが、口の中に錠剤をしばらくとどめておくと、苦味が出てくることがある。砕いた錠剤は、当然そういう苦味が最初からある。さらに言えば、砕いた錠剤は粉状になっていて飲みやすいが、しかし量は錠剤の状態と変わらない。だから子供のころは薬を飲むのにたいそう苦労した。それでいて体調はしょっちゅう崩した。薬に関する苦い記憶は今でも忘れられない悪夢だ。よく噛まずに食べものを飲み込んでしまう癖に、どうして錠剤が飲めないというのだろう。不思議なものである。
いつの間にか錠剤もすんなり飲めるようになった。
と、思っていたのだが、私は一つの錠剤を見つめながら文章を書いている。つまり、ここ二、三日で錠剤を飲み込むのが下手になっており、錠剤を口に入れることを恐怖している。
ここ数週間不調が続いていることも関係しているのだろうが、こんなことで手間取っている自分が情けない。
そういうわけで文章を書いて気分を紛らわせている。
ちょっと感じが変わるだけで簡単に飲めてしまったりするのだが、この感じが変わるということの実態が正確につかめない限りは、今後も苦労することになるかもしれない。