日記:「スワロウテイル」

花とアリスに続いて岩井俊二作品のスワロウテイルを見た。

大筋があんまりいいとは思えなかったけど、それは大した問題ではないと思う。ネタバレになるので、まずは触れない。後から触れる。

結局のところ作品の全体に通底する大筋なんていうものは、最後まで見てもらうとか、見終わったときに納得感を持ってもらうとか、その程度のものでしかない。

神は細部に宿ると言う。

この作品の細部に神が宿っていたかはよく知らないが、どちらかと言えば大筋より細部に神が潜んでいそうな作品だった。

あと、渡部篤郎がめちゃくちゃかっこよかった。

ここからネタバレも交えて書いていく。特に紹介とかはしない。見た人向け。

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上で大筋は大した問題ではない、と言ったが、なぜ大筋があんまりいいと思わないのかは書かないと誠実じゃないと思う。書く。

後半について。フェイホンはグリコに独善的に夢(みたいな何か)を押し付けただけのように見える。かといって、そういう部分について何らかの解決がなされるわけではない。フェイホンはグリコの成功を実感した瞬間を思い出しながら死ぬ。夢を押し付けていたことに反省もせず、一種の満足を胸に死ぬ。

貧しい人間が思わぬ大金に歓喜して、うまくやることもできずに足がついて、ゴタゴタといろいろなことがうまくいかなくなって崩れ落ちていく。そういう悲哀を描いていると言うのなら、いい。しかしこの映画は、そういう話に終始していない。

グリコは自分が有名になったことについて皆を裏切ったと思っているが、彼女の想いは消化されない。肯定も否定もされない。フェイホンはグリコのそういう言動を聞いてなおグリコの成功を喜んで死ぬのだから、これっぽちも届いていない。

まぁでも人生ってそういうものじゃないか。

そしてこの映画もそういう点に無頓着なのではなく、きっと故意にそうやっているのだろう。

例えばラストにかけて、アゲハの目論見が結果的にフェイホンを追い詰めたともとれる。しかしアゲハはそんなことは知らない。気づきすらしないから、もちろん自分がフェイホンを追い詰めたんだと自責することもない。作中の人物が気づかないだけではなく、観客に対してもそれを切ない悲劇として描かない。アゲハの計画を描いたシーンで、あえて悲しげな音楽が流れたりしない。

フェイホンがイェンタウンバンドの看板を目にしてグリコの成功に喜ぶシーンにしてもそうで、あれは本当にグリコが願った成功かはわからない。ある意味での悲劇かもしれない。しかしフェイホンにとっては歓喜の瞬間だ。だからあのシーンは歓喜のシーンとして描かれる。

ともすれば、よいシーンを描くために大筋を犠牲にしていると言われてもおかしくないが、そうじゃない。それでいい、それがいい、ということを思う。

大した問題ではないと言いながらたくさん書いてしまった。たくさん書いたのでもう書く気力があまりない。

 

見た人しか読まないだろうからシーンのよさについては詳しく言及しなくていいだろうか。音楽が流れながらあおぞらでの日々が描かれるところ、アゲハが刺青を掘るところ、アヘン街の様子、金を燃やすシーン、アゲハと劉梁魁のやりとり、他にもよいシーンはいっぱいある。よかった。何か美しいものがそこにあった。