日記:悲鳴について

苦しい人が苦しい状況で発する言葉を、勝手に悲鳴と呼んでいる。

悲鳴はときどき怨嗟の声としてあらわれる。

なにかの事故で大事な人をなくした人が、そのなにかについて「××はこの世からなくなればいい」と言ったとする。もしくは「××なんてみんな死ねばいい」と言うかもしれない。しゆはこれも悲鳴と呼んでいる。悲鳴はもちろん、支持できる内容でないこともある。一人の男が悪いことをしたことについて男を根絶やしにするべきだとは言いづらいし、一人の女が同じことをしても根絶やしにするべきだとはやはり言いづらい。ただ、支持できないからといって、悲鳴を痛烈に批判するのはナンセンスではないかと思う。

悲鳴をあげている人間にすべきことはまず寄り添うことなんじゃないか。論文を書いているわけでもなければ、企画をつくっているわけでもない。そんなとき、適格な批判が役に立つだろうか。

もちろん、すべての人がすべての人を気遣う必要はない。

寄り添えないなら立ち去ればいい。悲鳴を議論の俎上にひっぱりあげて、糾弾するのはどうなんだろう、というだけのこと。

 

 

一方で、たくさんの人が同じ悲鳴を持ったとき、それは一つの意見に姿を変えることもある。悲鳴が確固とした主張となる。ただの恨み言が、少しずつ現実的な形になってゆく。

言葉を忠実に実行する力こそ持たずとも、それは何らかの強制力を持つ意見だ。

悲鳴が意見になったとき、それに唯々諾々と従うことはできない。

 

しかし、悲鳴と意見の区別は曖昧だ。難しい。