日記:「太宰治の辞書」

この小説は、北村薫のデビュー作である日常の謎を扱ったミステリ「円紫さんと私」シリーズの17年ぶり(になるんだろうか)の新作である。と、私が大仰に語るのはよくない。何故なら私は「円紫さんと私」シリーズを読み通していないのだ。シリーズを一切読まないまま、私はこの「太宰治の辞書」を読むことにした。

連日感想を更新していることからわかるように、最近はすこし読んでいる。が、一時期はまったく小説を読んでいなかった。いやいや、読んでいる今が「一時期」にあてはまるというくらいには小説を読んでいない時間が平常だった。

そんなころ、ツイッターのタイムラインにちらりと映った「太宰治の辞書」という文字列。私はこれに惹かれた。読まなくてはいけない。だって、太宰治で、しかも辞書だ。彼はどんな辞書を用いて小説を書いたのだろう。それがミステリ作品としてどのような形をとるのだろう。タイトルだけで、私はさまざまな連想をした。しかも、私が愛読する米澤穂信が強く影響を受けている北村薫の新作と来たものだ。私は北村薫の小説をそれほど読んでいないが、この人の文章の丁寧な美しさには舌を巻いていた。しかし、めっぽう本を読んでいなかった時期だ。この作品がシリーズものであるという事実を聞き、私は「きっとまた読まずに終わるのだろう」という気持ちになる。読書とはかつての自分の趣味であったとしても、今の自分の趣味ではない。現在の私の趣味は言うなれば購書と言ったところで、買った本を読まずに転がしてしまうことこそが趣味なのである。

それでも、「太宰治の辞書」というタイトルには後ろ髪をひかれた。

——シリーズを読み通す自信がないのなら、最新作だけ読めばいいじゃねえか

それは悪魔のささやきだった。だが、考えてもみてほしい。ミステリというのは通常、過去の作品のネタバレをしないものなのである。シリーズものだからこそ描かれる成長や失敗はあっても、それぞれの作品の骨子である謎解きについては言及しない。それはもとより、ミステリというジャンルが、順番を入れ替えて読むことを許容しているという何よりの証左ではあるまいか。

そんな経緯があった。それがこの小説と私の、ちょっとした物語である。

 以下、ネタバレを含む語りになります。

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

 

 

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日記:「螺旋階段のアリス」

この作品がテーマにするのは「日常の謎」。

サラリーマンをやめて私立探偵になった仁木順平と、彼のもとを訪れて助手として働くことにした探偵志望の市村安梨沙。この設定だけでも惹かれるものがあります。

二人の事務所に舞い込んでくる謎は、仁木が憧れていたハードボイルドなものでもなく、かといって安梨沙が望むような優しいだけのものでもない。ちょっぴり苦く、でもやっぱり優しい、そんな謎の数々。というわけで、この作品は連作短編集です。

この作品の好きなところは、謎に対する苦みを含んだ答えを見せながらも、最後には優しさで包みあげる手腕です。そういう点で、やはり私は「中庭のアリス」と「最上階のアリス」が好きです。

「中庭のアリス」は探偵が務める最もオーソドックスにして堅実な仕事……犬探しを扱った作品です。死んだ夫が30年前にプレゼントしてくれた犬が逃げ出したということで、ある老婆から犬探しを頼まれた二人。しかし、なんと「そんな犬はいない」という情報をつかむことになります。それもそのはず、30年前にプレゼントされた犬が、今も生きているはずがありません。はてさて、犬は老婆が見ている幻にすぎないのでしょうか。

「最上階のアリス」のあらすじは面倒なので書きませんが、二人がそれぞれに調査の結果を報告するラストシーンの美しさは、仁木と安梨沙のキャラクターが綺麗に出ていて好きです。苦みと優しさが詰まった謎の答えも、うまく言えない気持ちにさせられます。

ナゾトキと後味の悪い結末、と言うとさまざまな作品がありますが、苦みがありつつも終始やさしいバランス感覚が癖になる一品でした。

新装版 螺旋階段のアリス (文春文庫)

新装版 螺旋階段のアリス (文春文庫)

 

 

日記:「貴族探偵対女探偵」

 前回とりあげた貴族探偵の続編。

日記:「メルカトルかく語りき」「貴族探偵」(ネタバレなし) - しゆろぐ

タイトルに「対」と書いてあることからもわかる通り、すべての短編において二つの推理が披露される。当然、真実は片方なので、一度提示された推理がひっくり返されるところに面白みがある「多重解決」もの。

トリックというか、状況が面白かったのは「色に出でにけり」。複数の恋人を持つ依子のキャラクターがもう面白いし、複数の恋人を持つ女がそれを家族に紹介していたら、恋人の一人が殺されて、もう一人の恋人が疑われる、という構図に妙がある。加えて、事件が解決したあとのオチも面白い。

多重解決ものとして面白かったのは「むべ山風を」。最初に提示された推理に対しての否定の仕方が鮮やかだったように思う。

ラストの「なほあまりある」の予定調和と言えば予定調和なラストも気持ちいい。連作短編としての仕掛けが見事に決まっていたし、トリック部分ではないので、読める展開でも問題ない。

ここから下、ちょっとだけネタバレあり。

(前作、貴族探偵のネタバレもすこし)。

貴族探偵対女探偵 (集英社文庫)

貴族探偵対女探偵 (集英社文庫)

 

 

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日記:「フランス白粉の秘密」

フランス白粉の秘密はミステリ好きなら知らぬ人のいないだろうエラリー・クイーンの二作目で、私にとってはこれが初めてクイーンの作品に触れる機会でした。ミステリ好きじゃないので仕方ないですね。

以前、麻耶雄嵩についてブログで書きました。

日記:「メルカトルかく語りき」「貴族探偵」(ネタバレなし) - しゆろぐ

ここでも最後に書いたのですが、麻耶雄嵩のデビュー作はクイーンの国名シリーズくらいは読んでいることが前提の作品らしいので、今回はそのクイーンの国名シリーズから、「フランス白粉の秘密」を読むことにした、というわけです。

端的に言って、面白かったです。登場人物紹介欄の人物の多さを見て卒倒(誇張)してしまい、半年くらいは積読状態だったのですが、読み始めてみれば鮮烈な死体発見シーンを嚆矢にして、めくるめく現場検証の描写にぐいぐい引き込まれていきます。

すこしネタバレかもしれませんが、密室で人が死んだ、とか。容疑者全員にアリバイがある、とか。そういう不可能を可能にするような派手なトリックはこの作品にはありません。しかし、だからこそ「どうやって犯人を特定すればいいんだ!」という問題がついて回るわけです。そんな中、探偵エラリー・クイーンは何気ない証拠品の数々から、実に論理的に事件の全体像を少しずつ解き明かしていきます。

たった一つのクリティカルな証拠、というものがないわけではないのですが、細やかな推理を重ねていくことで犯人の特定につながる、という構成が見事なミステリ小説でした。

ここから下はネタバレを含みます。犯人の名前は書いてませんが。

 

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日記:過去に読んだミステリまとめ

最近、読む時間はないのだが、ミステリに心を惹かれている。

あまりミステリに詳しくない。が、実際のところどの程度ミステリに詳しくないかはわからないので、読んだことのあるミステリを書き連ねておこうと思う。すなわち、書き連ねられる程度にしかミステリを読んでいないのである。

お察しの通り、完全に自分用のメモである。

最後のほうにちょっとだけ好きな作品の解説もある。自分用なのに。

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日記:「ボトルネック」

だいぶ昔に書いた記事が放置されていた。ちょうど『真実の10メートル手前』を読んだところなので、加筆してアップロードしておく。

 

 ダンケルクを見に行った日の朝、電車でボトルネックを読んでいた。

米澤穂信の書く青春小説だ。SFでもあるし、ミステリ的でもあるけど、個人的には青春小説。

自分の住む世界と似て非なる異世界に飛ばされてしまった主人公リョウは、生まれなかったはずの姉サキと出会い、世界の「間違え探し」を始める。非現実的ながら、設定はわかりやすく、コンセプトもわかりやすい。特殊な設定は、徹頭徹尾現実の一側面を掬い取るために使われているため、夢物語という印象はない。

米澤穂信は、姉にねじふせられたことがあるのだろうか、というくらい、小説に強い姉を出してくる。この作品のサキも例に漏れずとても強い存在だ。気丈であり、想像力に富む。一方、リョウはサキとは違う。想像を巡らせるのが苦手だし、行動力もあるとは言えない。

自分とは似ても似つかない自分の相似形が存在する世界で、リョウはどんなことを体験するのか。

痛々しくて、息苦しい。序盤の時点で。どういう風に残酷な作品なのかちょっと予想がつき、予想がついていても、やっぱり苦しい。ちょっとここからネタバレ

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)

 

 

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日記:「真実の10メートル手前」

米澤穂信の短編集『真実の10メートル手前』が文庫化していたので読んでみた。

簡潔にまとめれば、よいミステリであり、よい社会派であり、よい連作短編集であり、そして何よりよいキャラクター小説だった。

米澤穂信の初期の長編『さよなら妖精』に登場する太刀洗万智がジャーナリストになり主役として据えられているこの小説は、彼女がわずかな手がかりから鮮やかに真相にたどり着く様子がミステリだし、そこで描かれる事件を通して彼女のジャーナリズムに対する姿勢が繰り返し問い直される点で社会派的である。扱われる事件も、殺人に限らず、経営難と失踪、心中、孤独死、避難と救出など多岐にわたる。繰り返し問い直される問題提起が少しずつ形を変え、短編集という一作にまとまったときに一個の傑作として立ち現れる点でよい連作短編集である。

しかし、私としては、独立した複数の短編が少しずつ太刀洗万智というキャラクターを描いていくその筆致こそを評価したい。彼女なりの信念を抱きながら、彼女なりに事件に向き合い、彼女なりに答えを出す。しかしながら、自分から進んで言い訳をすることはなく、人に問われて初めて、内側に持っている信念の断片を見せる。真相究明の手腕と無力が描かれる物語、冷静だった彼女が声を荒げる物語、たまたまうまくいった運がよかった物語、それぞれの短編が太刀洗万智にさまざまな方向からスポットライトを当てることで、彼女のキャラクターに深みがうまれ、そこに愛着がうまれる。

米澤穂信の作品は悲しい結末も多い。悲しい結末を看取るキャラクターたちがいてこそ、その結末がただの悪趣味や露悪にならず人間の胸に残るものとして刻まれるんだろうと思う。

ネタバレありの語りは今回はなしで。構図が巧妙なのは「正義漢」。ちょっとした手がかりから推理を重ねるミステリとして面白いのは「真実の10メートル手前」。個人的に一番好きなのは「名を刻む死」。

まだ文庫版の画像がないようなので、Amazonのリンクは単行本版です。

真実の10メートル手前

真実の10メートル手前