日記:古い小説のように死を語る
随分とツイッターに脳をおかされているので、死について語るというと、追い詰められた人の絞り出す言葉のように感じる。実際、追い詰められた人の言葉であるときもあれば、そうでないこともある。
もっと死を、冷静に見つめてもいいのかもしれない。すこし古い小説を読んで思った。
そうしろとか、そうできるとは言わない。しかしながら、死について触れること、それ自体を自分が禁忌のように感じていると気づいた。禁忌のように感じながら、たまに考えてしまう。だからこそ、追い詰められた言葉になってしまう。
死にまつわる感情をそのまま吐き出すのではなく、まとまった文章としてアウトプットするということは、おおむね嘘をつくということだと思う。整理されていない感情は音と色が混ざり切ったようなもので、捉えがたい。捉えがたいものを捉えようと順序立てる時点で、何かがずれていく。そしてそれが一種の物語になると、酩酊がうまれる。こうなっていくと、文章を書く動機だった感情は、もはや文章を書くための道具でしかなくなる。死にまつわる感情は、そうしているうち、切実な何かから単なるテーマへと落とし込まれる。
となるのは、俺が何も考えず文章を書くことになれているからだし、文章を書くことに快楽を覚えるからだろう。それでも、感情を言葉に変えて気持ちいいものに変換できるなら、それに頼ってみるのも一興だろう。
日記:LA・LA・LAND
まず、ネタバレをしない全体的な感想。
映像の快楽として最高だった。
賛否両論があるのはよくわかって、よくもわるくもディズニーランドのショーみたいな感じ。これはミュージカルだからというわけではない。だったらディズニー映画みたいと言う。
ディズニー映画それぞれのことはよく知らないけど、各作品の要素やエッセンスを引き抜いてきて切り貼りして王道でいい感じにまとめあげたものがあそこでやってるショーで、ラ・ラ・ランドも似たものを感じる。もちろん、それに終始するわけではないし、作品独自の新規性みたいなものもあるんだろうという気はする。
とかいうけど、ラ・ラ・ランドで名前ががっていた作品も全然見ていないし、カサブランカだって名前しか知らないし、オマージュにひとつも気づかないような人間だから、基本的には知ったかぶり。知ったかぶりだからこそ、これが新しいのか焼き増しなのかはよくわからない。
そんな映画もミュージカルも見ない人間なりの感想を、ここ以降はネタバレ容赦せずに書いていきます。
続きを読む
日記:のけもののいない楽園
けものフレンズというアニメを見ている。
擬人化された動物たちの住む舞台で、人間である主人公が人間であることを自覚しないまま、自分がどんな動物か辿っていく物語だ。旅をしながら一期一会で様々な動物たちと出会い分かれてゆく。ロードムービーのような趣がある。
けものフレンズのOPの歌詞にはこんな一節がある。
「けものはいても のけものはいない」、作品の雰囲気をよくあらわしている。
1話では、できないことがあっても得手不得手があるのだ、ということが象徴的に描かれていた。
そういうところから、多様性の受容、みたいなものを感じる。けものフレンズは全体的に、平和で優しい雰囲気が徹底されている。それは素敵なものに見える。忘れてしまったイノセントな何かに、もう一度触れられるような気がする。
一方、そういうものを欺瞞だと思う自分もいる。
続きを読む日記:「日本の色」という言葉に疑いの目を向けてしまう
和色、伝統色、などで検索すると、いかにも美しい日本語といった感じの色の名前を紹介しているページに行き当たる。
こういうところ → 日本人の美の心!日本の色(伝統色・和色)
濡羽色、なんかが有名だろうか。いかにも風情がある色の語り方だ。
こういうものを見て、素直に、「日本にはたくさんの色があったんだね」と思えない。
まず出典はどこだ、ということが気になる。次にそれがどれほど定着していたか、ということも気になる。
例えば、どこかの歌人が一回そんな風に色を例えたとして、それは有名な1つのフレーズにすぎない。それを、「日本の色」みたいなくくりで紹介するのは、とても不誠実なことだと思う。
なんて難癖をつけたけど、上のサイトは結構そういうかゆいところまで説明がついている。使われ方としてこういうのがオーソドックスだった、とか、この作品名に色の名前が残ってる、とか。
続きを読む