日記:言葉にできないからといって
言葉にできないからといって、関心がないわけではないということを思う。
映画の感想に関する文脈で、「みんな、人間や物語については語ろうとするが、風景や画面といった映像については語らない」といった趣旨の話を聞いた。そしてそれに続く形で、「結局、人間や物語には興味があっても、風景や画面には興味がないんだ」ということも聞いた。
私は、「語れない」もしくは「語らない」ということは、興味がないということではないと思う。
例えば私には、好みの曲と、そこまで好きではない曲があり、その区別がつく。ただし、その境界はどんな基準に基づいているか、ということは語れない。把握できていない。一方、歌詞については生活の延長で、(本当の意味で語れるのかということはさておいて)、少しばかりは言及することができるので、する。
このとき、私は歌詞にだけ興味があって、曲には興味がないということになるのだろうか。そうではなく、曲について話すための知識の最低ラインのハードルが高い一方、歌詞について話すための知識の最低ラインのハードルが低いというだけではないかと私は思う。曲にも歌詞にも誠実に向き合ってはおらず、歌詞については共感とか、そういう言葉で何かを話すふりはできて、ごまかせるというだけのことだ。
とはいえ、私は言葉にすることを何らかの軸にして生きている人間なので、自分が「語れない」もしくは「語らない」ということに対して、やや不満もある。
風景や画面の話に戻る。
例えば、先日書いたジョーカーの感想で、作中に出てくる階段が良いと書いた。しかしながら、それでは不十分と考えたのか、最終的に階段と物語を絡めるような内容も書いてしまった。
もちろん、風景や画面の構成は物語と密接に関わる演出の一つだ。風景や画面が物語を演出するように、物語が風景や画面を演出することもある。その相乗効果は特筆に値する。
しかしながら、何かを話そうとするとき、物語やテーマといった大筋から逃れられず、画面や風景の良さを単独で言葉にできていないと、そんなことを思ってしまうのもまた事実だ。
言葉にできないからといって、興味がないというわけではない。しかしながら、興味があるものについては、ちゃんと言葉にできるようになりたい。
ただし、言葉にできたからといって、それが自分の本心とは限らない。言葉にしているとき、うまく文章にまとめようとして無自覚に嘘を書くことも少なくない。難しい。