日記:「海街diary」

邦画が見たくなってきたので。

ちょうど今、是枝監督の「三度目の殺人」が上映している。それを見に行くかはわからないけど、是枝監督の作品を見ようと思った。そんな経緯。

あらすじ

あらすじを語るのもあんまり意味がないタイプのお話。三姉妹が鎌倉で暮らしてて、再々婚した父親の葬式に赴くことになる。そこで、父親の再婚相手の女の子と出会い、長女が女の子に、一緒に暮らさないかと持ち掛ける。女の子はうなずき、三姉妹の更に妹となる。共同生活が始まる。色々なことが起こる。

こういうあらすじには大事なところが描かれていない。葬式は鎌倉から遠い、山あいの田舎町。女の子は再々婚の家庭になじんでいる感じがあんまりしない。女の子は姉妹の父親の世話を最後までしていた。再々婚の相手は、ちょっと頼りなくて、葬式でも彼女がやるべきところを女の子に任せようとする始末。三姉妹の長女に聞かれて、女の子が父との思い出の場所に三姉妹を案内してくれる。その場所は、海がないことを除けば、鎌倉の景色にちょっと似ている。この映画の大事なところは、そういうところにある。それは、何気ない情景であり、やりとりであり、生活である。劇的なエピソードではなく、連綿と続き有機的に関係する細やかな出来事のなかで、物語が描き出されていく。

雑感 

ぼやーっと見てて、楽しかった。映像も、穏やかに美的センスが爆発している感じだし。打ち上げ花火の映し方も、手持ち花火をやっているシーンも。家の映し方も、食堂の映し方も、街並みも、桜並木も、ぜんぶぜんぶ。

あらすじの部分は出来事とか、生活とか、書いたけど、構成とか人物の配置はかなり象徴的な面もあるなぁと思う。

好きなのは、母と長女のやりとり。喧嘩になるくらいで、不器用で、でもやっぱり家族で、みたいなもの。どんなに離れてもやっぱり家族、なんて言葉が出てきてしまう点で家族は一種の呪いでもあるけど、それでもそこにある何かを信じたくなってしまう。そういう絶妙なやりとりが、うまい。こういうところも含めて家族は一種の呪いなのかもしれないけど。

食事が印象的だ。生しらす丼にせよ、しらすトーストにせよ、シーフードカレーにせよ、ちくわカレーにせよ、そこには個人の物語が息づいている。食べなくちゃ生きていけないし、ほとんどの子供にとって、食事は与えられるものだから、そこには与えた誰かとの思い出がある。具体的には親だったり、祖父母だったり、食堂の人だったり。

色々な形で人とのつながりを描いている作品だった、なんてまとめ方はただまとめているだけで、きっとそれだけの話じゃない。でも葬式なんていうのは、やっぱりそういう面を象徴していて、死んだ人間の下に集まるのは、その人とつながりがあった人々なんだと思う。

ネタバレとか↓

 

 

「あれ」という言葉が頻出していたのはきっとわざとなんだろうな。

「あれする」とか。

会話にリアリティを出すため、というにはちょっと浮いていた気もするけど、でも何らかの効果があったと思う。

言葉の話で言えば、久々に邦画を見て、「~~わよ」みたいな(使う人もいるけど)いかにもフィクションっぽい女性の言葉がなめらかに出てくる女優凄いなと思った。声優とかはフィクションに向けて声がチューンされている感じがあるけど、実写は嘘でありつつ、やっぱり生身感があって、そこにフィクションが混じっているのが凄い。「~~わよ」、使う人もいるけど。

 

家族という空間はやっぱり特殊だなぁと思う。嗜好も生き方も違う何人かが、家族というそれだけで多くの時間をすごす。でも最近では、シェアハウスとかもあって、これは家族というより共同生活の話かもしれない。

 

姉妹の個性とそのバランスがとてもよくて、それだけに後から入ってきたすずが入りづらいんだろうなぁみたいなことをちょっと思った。もちろん、気を許せてからは、とてもいい居場所になることは間違いないけど。

 

鎌倉に行きたい。

しらす丼食べたい。

 

葬式で始まり、葬式に終わる、というのは象徴的だ。

序盤で訪れたすずの思い出の場所と、そこに似ている、終盤で訪れた鎌倉の風景も、きれいな対立になっているかもしれない。

基本的には様々な形で日々を描いた漫画の映画化で、その漫画のなかでどれほど象徴的にものごとが描かれているかは知らないけど、少なくともこの映画のなかでは「物語の終わり」を意識した演出になっている。

記憶のどこかにあった思い出が、日々の中で形を伴って回収されてゆく。見えにくかった物語が可視化される。もちろんそこに物語を見出すのは人間の勝手で、勘違いですらある。でも、そこに何らかの安堵があるような気がする。

そういうことが現実にどれくらいあるかはわからないけど、そういう瞬間があるといいなぁとなんとなく思った。