日記:「ゴーン・ガール」

無関係な話だけど、「この映画(ゴーン・ガール)の感想は男女で分かれるかもしれない」 みたいな意見を見るたびに、すべてがつまらない男と女の二元論に人間が回収されていく、みたいな気持ちになりませんか。俺はなります。まぁこの映画はそういう映画なのかもしれません。

そんなことはさておき、ゴーン・ガールです。

 

あらすじ

ある女性の失踪の物語にして、結婚のお話。

冒頭は、失踪後の物語と夫婦の過去の物語が交互に語られていく。そのうちに、失踪した女性の夫・ダンが妻の血液型すら知らないこと、妻の親友の存在すら知らないことが明らかになる。ほかにもいくつかの事実が、彼らの夫婦関係を描き出し、過激な報道のせいもあってか世論は段々と「彼が妻を殺したのではないか?」という方向へと傾いていく。ダンは妻を殺したのか。夫婦に何があったのか。真相をめぐるサスペンスでありながら、真相が明かされたあともサスペンスであり続ける映画。

映像

オープニングで彼らが住むミズーリ州のとある町のカットが流れる。都会から離れた牧歌的な町。そういう町の何気ない部分を、何気ないまま美しく写し撮る手腕がいい。同じフィンチャー監督のセブンを見たときにも思ったが、映像が洗練されている。しかし、セブンは目を奪われるほど”芸術的な”シーンも多かったが、本作は物語のなかで適切な画が適切に洗練されている。だからこそ、何らかの芸術性を伴う終盤のあるシーンがひときわ象徴的になっている。

(そもそもセブンで芸術的な事件現場は、犯人がそういう趣向だったにすぎないのだから、そりゃそういうシーンは少ないだろうけど)

物語

夫婦の溝、失踪、加熱する報道、容疑者になる夫。新たな事実が、いっそう彼を追い詰めていく。そういうひりひりサスペンスも、もちろん面白い。しかしもっと面白いのは、世間なんか飛び越したところにある夫婦の関係性であり、それをどういう風にとらえるにしろ、そこに本作の面白みが詰まっていると思う。もちろん、その夫婦の関係性を含めてサスペンスなんだけど。

あまり本題ではないけど、夫が妻を殺したのか、殺していないなら妻がどうして失踪したのかという物語であることは知っていたので、パーティで夫が妻に声をかけるシーンや、プロポーズのシーンのめちゃくちゃ気取ったセリフが見ていて、こう、あれだった。

ここからはネタバレです

ブログの構成を2パーセントくらい頑張ってみたけど、ネタバレまでの文字量が無駄に増える上にどこにでもありそうな文章になってしまうね。

 

 

本筋にはかかわらないところから。

警察をきちんと優秀に描けているところがすごい。

警察は犯人にある種出し抜かれてしまうわけだけど、その理由が「単に警察が愚かだったから」に見えないところがいい。もちろん実力でいえば、出し抜かれているわけなんだけど、わかってなかったわけじゃない。

行き届いている、ちゃんとしている、感じがする。

もっともそう思うのは、俺が間抜けだからかもしれないけど。

 

ダンについて。

ダンは救えない人として描かれている反面、エイミーに着いていけるのもこの人くらいしかいないんじゃないかなぁという気がする。

場の雰囲気に流されてしまう人。流されて、そこそここなせる人。

夫婦生活の中でだんだんと彼はダメになっていくわけだけど、夫婦生活というのは特定の場ではなくて、かなり生活の大半を占める場になるわけで、それ全体で役割を演じ続けるようなタイプではなかったようだけど。

上でさんざんサスペンスとか書いたけど、ダンがツーショット写真を撮られて調子よく映ってしまうシーンとか、ダンの浮気相手がでてくるシーンとか、最終的にダンが場の雰囲気に流されていくシーンとかは、結構コメディ的。

 

エイミーについて。

百合小説を書くときは、エイミーのようなキャラクターを描くといいと思っている。目的のためには常軌を逸したこともできてしまうマキャベリスト。こういうキャラクターは、物語を動かしてくれる。もっともエイミーは執念深いが、どこか弱いところもある。例えば計画の完遂のための自殺をためらってしまうところとか。

 

この物語の好きなところは、事件の真相が明かされてから、物語が対決の様相を呈してくるところ。単なる争いごとやもめごとは好きじゃないけど、対等な個人と個人の対立は結構好き。

上で、なんらかの芸術性を伴う終盤のあるシーンと書いたところは、もちろん血まみれのエイミーが帰宅してダンを抱きしめるところ。これはメディア向けの演出でもあり、彼女の巧妙さが光るところだけど、それに対してダンがファッキンビッチとささやくのも含めると、ものすごく構図の美だなぁと思ってしまう。

一方で物語はそこで終わらず、 むしろそこからの夫婦生活こそが本番なんだろう。エイミーは一面としては安全のためにダンに役割を演じさせる。真相が露見するのは、エイミーにとってリスクなわけだ。しかし役割を演じ「続け」させる、というのは単に安全のためだけではない。これについてインターネットで色々と言われているようだけど、彼女は彼女なりに、現実的な幸せを模索していたんじゃないかと思う。

エイミーにとって男性がパートナーなのか道具なのかはわからん。

ダンについてはほぼ脅迫状態ながら、妹からはエイミーとの関係が気に入っているんじゃないかと糾弾されて言い返せなかったり、彼も彼で抜け出せなくなっているみたいな描写がある。こっちについては、もっと丁寧に描いてほしかった。あんまりわからなかった。まぁテレビ出演を取りやめないと判断するシーンのダンの自信からして、彼なりの演じることへの自負や、エイミーについて「読める」と思っている自負が描写されているのかもしれない。

 

いい映画だったしいい感想を書きたいなぁと思ったけど、あまり満足いく感想は書けなかったな。

エイミーの両親についてとか書くべきなんだと思う。

見て。