日記:「スワロウテイル」

花とアリスに続いて岩井俊二作品のスワロウテイルを見た。

大筋があんまりいいとは思えなかったけど、それは大した問題ではないと思う。ネタバレになるので、まずは触れない。後から触れる。

結局のところ作品の全体に通底する大筋なんていうものは、最後まで見てもらうとか、見終わったときに納得感を持ってもらうとか、その程度のものでしかない。

神は細部に宿ると言う。

この作品の細部に神が宿っていたかはよく知らないが、どちらかと言えば大筋より細部に神が潜んでいそうな作品だった。

あと、渡部篤郎がめちゃくちゃかっこよかった。

ここからネタバレも交えて書いていく。特に紹介とかはしない。見た人向け。

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日記:「花とアリス」

いい映画だというのがよくわかる。

一方、そこまで心には来なかった。

俺の精神状態の問題かもしれない。

ネタばれというほどでもないネタバレを書きます。

 

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小説:ドラッグ&ドロップ

 カプセルを齧ると、かるく一時間は飛ぶ。

 めまいがする。吐きそうになるし、実際に吐いていることもある。一方で、極上の悦楽を感じる。まさしく世界と同化できる。体が全てと溶け合って、あふれる。そう、あふれる。あふれるという言葉が適切だ。僕がコップからあふれてこぼれて、でもカーペットにしみこんでしまったらカーペットさえも僕になるし、それなら当然、雨も、空も僕になる。どこまでもあふれていく。

 僕がカプセルに手を出したのは、インターネットに入り浸っていたころのことだ。それは知る人ぞ知る秘されたコミュニティにおいて、有益な情報として共有されていた。だから僕はカプセルに手を出すことにした。カプセルに詰まっているのは薬物じゃない。情報だ。といっても、女の子にモテる釣り糸のたらし方とか、カレー用ソースポットの歴史とか、イッカクの生態とか、そんなチャチな情報が掲載されているわけではない。そんな量じゃ、詰まっているとは言えない。カプセルには、その日一日のすべての情報が詰まっている。例えば2001年9月11日のカプセルを齧れば、僕は例の事件のすべてを知ることができる。でもそんな劇的な日付のカプセルは出回っていないし、劇的な日付を選ぶ必要もない。

 世界はいつだって劇的で、何もかもあふれている。

 

 

 

 

 カプセルは、不法なものとされている。しかし僕から言わせてもらえば、カプセルをやめさせたがるあいつらこそ間違っている。知れば、世界はよくなるからだ。知らぬ人間たちが、その無知を晒して、僕たちの足を引っ張る。全世界の人間がカプセルを飲み込めば、戦争も飢餓も、貧富の差も、差別も、そういったことはなくなる。そもそも貨幣というシステムが不要になる。あんなものは人間が愚かであることを前提にしたシステムだ。

 しかし、僕だって人のことは言えない。僕が摂取したカプセルは、まだ10にも満たない。金が要る。愚かな人間がカプセルを違法なものにしてしまったから、製造も流通も一苦労なのだ。僕は糊口を凌ぎながら、余らせた金でカプセルを買う。その暮らしを続けていけば、何もかもうまくいく。

 その日は×××4年×月6日のカプセルを買った。僕はよりよくなった。また一つ間違えなくなった。周囲の凡俗は間違えてばかりだ。間違えるのは彼らの努力が足りないからだ。彼らは誰かを傷つけ、搾取し、よがるような日々を続けている。彼らは彼らが踏みつけている存在には気づかない。僕は気づいている。だから、世間がどんなに死体を並べた大地であったとしても、その間隙を縫ってゆく。無論、僕だって間違える。しかし僕のミスは一日一日、着実に減っている。彼らとは違う。

 

 

 

 ××奈は言った。

「ねぇ、私のこと覚えてる?」

 無論、僕は知っている。

「君は××奈だろう。×木×朗と×木××子の第二子だ。彼らの第一子、×木××朗の妹だ。君について僕はたくさんのことを知っているから何を言えばいいかわからないけど、現在の君を構成する大きな要素としては、兄の×木××朗が薬物中毒で捕まったことをとても悲しんでいるね。大丈夫。そんなことは些細な問題だよ。なぜなら君は2年後には兄のことをあきらめるし、その時期を支えてくれた友人と結婚する。もちろん、結婚だけが幸せの形ではない。でも分かりやすい証拠として僕は言ったんだ。だって僕が、君は2年後幸せになると無条件に言ったって、君は信じないだろう?」

 ××奈は何も言わなかった。

 面会時間は終わった。

 

 

 

 僕はよい牢獄での過ごし方を知っているから、この環境をどんどんよくしていく。反省の色すら見えなかった囚人たちも、今では希望を持っている。色々な事情の者たちがいる。貧困にあえいでいた者、すこし倫理観の欠落している者、衝動が抑えきれなかった者。それでも僕らはきっとよりよくなれる。だって僕たちはいろんなことを知った。牢獄のなかでカプセルを齧ることはできないけれど、既に1000粒は越えている。知れば、僕たちは救われる。

 その日も××奈がやって来た。

「×屋くんとか、×橋さんがあなたに会いたいと言ってるの」

 僕は×屋くんのことも×橋さんのことも知っていたが、断った。

「必要がない。×屋くんも×橋さんも今はすこし気分がすぐれないみたいだし、第一僕と会ってどうするんだい? 彼らの輝かしき人生に僕は必要ないさ」

 ××奈は声を震わせる。泣いているようだった。

「×橋さん、ずっとお兄ちゃんのこと待ってるって言ってる。お兄ちゃんだって、×橋さんを守っていくために頑張ってたんじゃないの? どうしてそんな風になっちゃったの」

 ××奈が幸せになることは知っているけれど、僕だって目の前で泣かれてしまうのは心苦しい。

「個人が優先できる世界は限られている。個人でいる限りね。でも僕はそれを拡大したんだ。だから、もう僕は君の知っているお兄ちゃんじゃないけれど、きっとよりよくなれた。一人じゃなくて二人、二人じゃなくて三人を幸せにすることができる。僕は直接×橋さんの手を取ることはもうないだろうけど、結果的に、×橋さんもよくなっていくよ。第一、男が女を守るという考えが、あんまりよくないと思うな」

 ××奈は涙をぬぐった。

「もういい。許可、取ったことにするから」

 ××奈は出て行った。目の前のできごとだけ切り取れば、僕は彼女を傷つけている。でも、そういうことを考えるのも、知らないからだ。知っている僕は、こうするのが一番いいと知っている。

 

 

 

 僕は計画を実行した。

 それは暴動と呼ぶには組織立っていた。情報を共有できるすべての人間が、緻密に動く。テロというのが近いかもしれない。計画通り、僕はこの国を脱出して××に渡る。それが一番いい。僕は知っている。カプセルを開発したのは××の人間だし、××の人間も僕とコンタクトをとりたがっている。

 囚人たちは僕に感謝した。僕はこの先、彼らにもカプセルを与えるつもりだ。僕は彼らに、必要な最低限の断片しか伝えることができなかった。

 以前の僕は愚かだった。知らない人間に罪があると勘違いしていたのだ。知っている僕が知らせなければいけないのに、その役割を放棄し、自己責任と断じたのだ。でも僕はそのころと比べものにならないほどよくなったから、よくわかる。僕こそが彼らを啓蒙すればそれだけで済むのだ。

♪~

 僕が潜伏中の穴倉となるアパートの隅っこでラジオを聞いていると、音楽が流れた。ニュースを聞いているつもりだったが、チャンネルがずれてしまったらしい。

 エリック・サティジムノペディ。×橋×香が好きだった曲だ。

 なぜ僕は、×橋×香のことを思い出しているのだろう。

 エリック・サティジムノペディも世界的に有名だ。当然、この曲に関するエピソードは無数にある。有名なものから、無名の誰かのちょっとした思い出まで、僕はすべてを知っている。それなのに×橋×香のことを思い出すのは不自然だ。

 自分が涙を流していると気づいたとき、僕は寝たほうがいいと知っている。

 だから僕は眠りにつく。

 そうすればうまくいく。

 柔らかくあたたかい毛布の感触が、どうしてか心細い。

 カプセルがほしい。ぜんぶ僕になれば、僕は安心できる。

日記:悲鳴について

苦しい人が苦しい状況で発する言葉を、勝手に悲鳴と呼んでいる。

悲鳴はときどき怨嗟の声としてあらわれる。

なにかの事故で大事な人をなくした人が、そのなにかについて「××はこの世からなくなればいい」と言ったとする。もしくは「××なんてみんな死ねばいい」と言うかもしれない。しゆはこれも悲鳴と呼んでいる。悲鳴はもちろん、支持できる内容でないこともある。一人の男が悪いことをしたことについて男を根絶やしにするべきだとは言いづらいし、一人の女が同じことをしても根絶やしにするべきだとはやはり言いづらい。ただ、支持できないからといって、悲鳴を痛烈に批判するのはナンセンスではないかと思う。

悲鳴をあげている人間にすべきことはまず寄り添うことなんじゃないか。論文を書いているわけでもなければ、企画をつくっているわけでもない。そんなとき、適格な批判が役に立つだろうか。

もちろん、すべての人がすべての人を気遣う必要はない。

寄り添えないなら立ち去ればいい。悲鳴を議論の俎上にひっぱりあげて、糾弾するのはどうなんだろう、というだけのこと。

 

 

一方で、たくさんの人が同じ悲鳴を持ったとき、それは一つの意見に姿を変えることもある。悲鳴が確固とした主張となる。ただの恨み言が、少しずつ現実的な形になってゆく。

言葉を忠実に実行する力こそ持たずとも、それは何らかの強制力を持つ意見だ。

悲鳴が意見になったとき、それに唯々諾々と従うことはできない。

 

しかし、悲鳴と意見の区別は曖昧だ。難しい。

日記:手を抜く

手を抜くと、クオリティは落ちる。

でも、完成する。

 

小説もそうだった。

日々の食事も、手を抜くことで外食やコンビニ食に頼る頻度が減ってきた。

ブログも、手を抜くと書ける。気合を入れたものは、たいてい下書きで止まっている。下書きはかなり溜まっている。

 

しかしながら、クオリティは落ちる。

でも考えてみると、その落ちたクオリティくらいが、身の丈というやつなのかもしれない。

手を抜いて、身の丈にあおう。

 

もちろん、背伸びしてみるのもいい。

でも、背伸びをして自分を追い詰めるのもよくないんじゃないかなって。

小説:人形になりたい

 熊のぬいぐるみはため息をつく。

「キミは人間だからそんなことが言えるんだ」

 その瞳は、クレヨンで塗りつぶしたみたいな真っ黒い色をしている。きっとそれは、夢にあこがれる純粋な色じゃない。目のなかの白い部分をぐりぐりと黒く染めた、諦念のような色だ。深夜、真っ黒な部屋だから、よけい黒々と見えてしまう。

「そうかもしれない。でも僕は今、人形になりたい」

 熊のぬいぐるみは抱き上げても、高い高いをしても眉ひとつ動かさない。無表情に、諦めに満ちた瞳で、僕のことを見透かす。

「ボクは人間になりたいよ。人間になったら、パスタをゆでる。一緒にワインを飲もうか。それからカジノで儲けて、雌のぬいぐるみとダンスして踊り明かすね」

 熊のぬいぐるみは雄だ。つがいとして雌のぬいぐるみも売られているが、この部屋にはいない。僕が買っていないからだ。後からペットとして追加された猫のぬいぐるみなら持っているが、熊とはどうも折り合いがつかないようだ。

「悪いけど、あの雌のぬいぐるみのデザインは好みじゃない」

 熊のぬいぐるみは勘違いするな、と苦笑いする。

「そんなことは知ってるさ。たとえ話だよ。キミは何でもできる。ボクみたいな受身な存在とは違うんだ。何でもできるのに、何にもできなくなりたいなんて、おかしな話じゃないか」

 確かに、熊のぬいぐるみと比べたら、僕にはいろんなことができる。手を使えば熊のぬいぐるみを撫でることができるし、足を使えば遠く遠くに進んでゆける。にんじんを食べられる。アパートを燃やすことだってできる。会議中に、「みんな伏せろ!」と突然叫ぶことさえも思いのままだ。

 しかし、僕はできることのうち、ほとんどをやらない。にんじんは嫌いだし、アパートを燃やしたって自分の首をしめるだけだ。会議中に叫んで神妙な顔をした上司の間抜け面でもおがめれば楽しいけど、その後どうなるかはわからない。可能性として、僕にはいろんなことができる。それでも、僕はいろんなことをやらずに生きてきた。これからもそうだろう。

「人形になったら、そういう説教もされずに済むんじゃないかな。何もできないんだから」

 熊のぬいぐるみは黙ってしまう。

 こういうとき、彼の瞳がいくらか悲しげに見えてしまう。きっと気のせいだ。ちょっとしたシミに人の顔を見出してしまうほど、人間は意味を求める。意味を求めるから、ありもしないものが見える。熊のぬいぐるみは涙を流さない。表情も変えない。彼の言葉だけが、彼の真実である。

「ボクとキミは平行線だね。立場が違う」

 だけど、熊のぬいぐるみは本心を呑み込むようなことを言う。

 それなら僕も、嘘をつこう。

「そうだね。きっと僕も君になったら、動き回れるようになりたいって言うに違いない」

 朝焼けはいつも白々しい。

 朝を迎えたくない本心を覆い隠して、世界がすがすがしくなったかのように錯覚させる。

日記:つなげていくこと/永らえること

素朴な生命観として、種の存続のためにいのちは生きているのだという考え方がある。

素朴なので厳密には間違っているのかもしれないし、そもそも正しいとか間違っているでは議論できない内容であるとも思う。こういうことを素朴に考えてしまうというのも、生命に関する現象のひとつにすぎないのかもしれない。

 

宇宙のスケールに比べたらちっぽけかもしれないけど、人間の営みはすごいと個人的には思っている。よく永らえてきたものだ。一方で、いつまで続ければいいんだろうと思ったりもする。

ゴールのないリレーをしているような気持ち。

リレーが簡単ならいいが、次の走者にバトンを渡すのも一苦労なのだ。何しろ子供が大人に育つのも大変だ。育てたくても子供のいない人もいる。大人になったからといってうまく働けない人もいる。働くことが、社会に貢献できているのかもわからない。獲物を食べるとか、種を育てるとか、外敵から身を守るとか、それだけだったらわかりやすい。でも、今世界中で取り組まれている色々なことが達成されると、人間はもっと続くようになるんだろうか。人間はよくなるんだろうか。どんなバトンをどこに渡せば、ゴールに近づけるのだろう。

 

人類は、いつか終わる。

無限に続く可能性もある。叡智が太陽の寿命をも飛び越えて、現在の我々が知らないほどどこかへと広がっていくことだってあるかもしれない。宇宙なんてちっぽけなもの、と思う時代がやってきてもいい。

だからこれは私の主観的で悲観的な予測だ。人類はいつか終わる。

人類が終わるときのことを考えると、我々は適切に終わることができるだろうかと不安になる。適切、というと語弊があるかもしれない。しかし、悲しみに満ちた永遠や、悲鳴と怒号の飛び交う最後は嫌だなぁと思ってしまう。

人類は個人の死という形で小さな終末に幾度も触れてきた。

大きな終末にだって、向き合うことになる日が来るのかもしれない