日記:「やがて君になる 佐伯沙弥香について」

 読んだ。

「佐伯沙弥香について」と題するスピンオフにふさわしく、キャラクター形成の細部が丁寧な作品だった。

感想:佐伯沙弥香は大学選びでも人間関係を理由にして遠くに行く選択をしてほしい。たぶんそうはならないけど……。

ネタバレあり。

 

 

・キャラクター形成の細部

小学生編の当初、佐伯沙弥香は優秀な人間として登場する。もっとも、「やがて君になる」本編時間における佐伯沙弥香も十分に優秀だが、当時と現在の佐伯沙弥香には異なる点がある。

やるからにはどの習い事でも前に立つ。そのつもりで臨んでいる。

誰かに前を歩かれるなんて、ほとんど経験したことがなかった。 (p.20)

当時の彼女は、一番だった。それが当然のことであったし、本人も主体的に一番であり続けようとしていた。しかしながらスイミングスクールでの出来事を経て、すべての分野について一番であり続けることの難しさを知る。だから、中学生編になると、彼女はすこし生き方、指針を変え始める。

それは本心でもあったし、あらゆる先頭を歩き続けることへの限界もあった。人に勝てること、勝てないことの区別をつけながら自分を高める。考えなしに前へ前へと進んでいかないことを私は覚えた。

それは視野が広がったということなのか、単に遠くが見えなくなって諦めてしまったのか。 (p.70)

本編の佐伯沙弥香はトップを走り続ける七海燈子の一歩後ろに位置している。それは彼女の指針に従ったものでもある。ただ彼女の指針が意味するものはそれだけではなく、 佐伯沙弥香は「あらゆる先頭を歩き続けること」の難しさを知りながら、姉に憧れ完璧な自分を偽ろうとする七海燈子を見つめ続けているということも含意している。

 また後半の「遠くが見えなくなって」というのは、本編においても彼女は家で眼鏡をかけていることにひっかけている。小学生編において、彼女の視力の変化の予兆も描かれている。

少し視力が落ちたのだろうか。近眼、と机の上のノートを連想する。

酷使された目が、近くのものを見るためのものに変わってしまったのかもしれない。

自分を高めるために注力した結果、落ちていくものがある。(p.52)

 この描写の巧みなところは、「家で眼鏡をかけている」という彼女の身体的な設定と、優秀だった彼女が「一番であり続ける」という指針を捨て今のようなあり方を覚える精神的な設定を同期させている点にある。

 またここまで見てきたような「積み上げ」式の佐伯沙弥香の生き方は、彼女の恋の在り方そのものも反映している。当初は先輩に対して明確な恋心を抱いていなかった彼女は、まるで積み上げるように思考を重ねて、いつの間にか恋に落ちる。一方で、その「積み上げ」は、破局によって一瞬で崩れ去る。

一年近くがあっさりと不要な時間になった。

それまでの私のことまで朧気になって、これからの自分というものがまるで見えない。 (p.198)

 これも佐伯沙弥香の考え方に影響を及ぼしていると思われる。「どんなに積み上げてもすべてにおいて一番になれるとは限らない」「だから積み上げるものは選ばなければならない」「なのに、選んだはずのものが意味を失うこともある」そんな諦観。だから一度、佐伯沙弥香はそういう恋から離れようとした。しかし、七海燈子に出会った彼女は再び恋に落ち、その先に崩落が待っている可能性を知りながら、燈子の隣に居続けることを選ぶ。

小学生のころの佐伯沙弥香からは、少しずつ変わっている。でもこの作品は、そういう変化を丁寧に描いている。最初から高校生時点の佐伯沙弥香の小学生版が登場するのではなく、小学生だった佐伯沙弥香が、不可逆の変化を経て今の彼女になったことを表現している。

 

他にも細部で「いいな」という描写はたくさんあった。

『佐伯沙弥香』 

私の名前だ。どれも小学校の授業ではまだ習っていない漢字だった。だから自分で書き取って練習する必要がある。ひらがなばかりが続くと子供じみていて、子供なのだけど、出遅れているように感じてしまう。書き順を調べれば、難しい漢字ではなかった。

(中略)

喧噪の中で、私は自分の名前を呟く。

頭の中に浮かぶ名前は、まだひらがなだった。(pp.20-22)

おそらく小学5年生の時点で、 佐伯沙弥香という漢字を彼女は習得している。しかしながら頭に思い浮かべるのは「さやか」というひらがななのである。こういうところに、人間を描くための細部がある。

(実際、さやかって変換面倒だよね(?))

「……理解の早い子だ」

「でも理解が早いということは、臆病になるということでもある」(p.32)

 沙弥香の祖母の台詞だが、本編を読んでいる読者には納得の内容だろう。

 

・柚木千枝について

女どうしの愛なんて思春期の一時の感情じゃないか、というのは世間による素朴な偏見でもあり、百合というジャンルそのものにかけられた呪いでもある。佐伯沙弥香の物語は本編で決定づけられている部分もあるが、こういう呪いに少しだけ向き合った作品だとも言えるかもしれない。

なにせ佐伯沙弥香と交際していたはずの柚木千枝は遊びだったと言う。

「遊びでこういう付き合いをするのはよくないと思うの」(p.194)

「思春期の一過性の感情」をそのまま言い換えたようなことも言う。

「一時の気の迷いのようなものだったのよ」(p.195)

この柚木千枝を描いて、彼女の言葉を聞いてもう同性に恋をしないと決意をする佐伯沙弥香を描いて、その上で七海燈子を好きになる佐伯沙弥香を描くことは、「百合は思春期の一過性の感情だ」という呪いへの抵抗にもなり得るのかもしれない。

(しかしながら、呪いであるがゆえに、この作品がこういう言葉を使ったことがよかったことなのかはわからない。そこにもよもよとした感情がある)

 

青い花」の花城千津と比較すると、柚木千枝先輩のことが少しだけわかりやすくなるかもしれない。

花城千津は「青い花」の主人公のひとりである万城目ふみと肉体関係まで持っていたが、物理的な距離がきっかけになって疎遠になる。その後、千津は男性と結婚する。

この二人が似ていると思うのは、再会後のシーンにデジャブを感じるからだ。「やがて君になる」本編、そして「青い花」には以下のようなシーンが描かれる。

柚木千枝:「ごめんね沙弥香ちゃん」

佐伯沙弥香:「それは……何に対してですか」

柚木千枝:「沙弥香ちゃんは普通の子だったのに 私に付き合わせちゃったせいで…その…」「もしも今も沙弥香ちゃんが女の人を好きになる人だったら 私のせいだから」

(「やがて君になる4巻 p.49」)

 

花城千津:「ふみちゃん好きな人いる?」「いま」

万城目ふみ:「……いる」

花城千津:「男? 女?」

万城目ふみ:「女の子」

花城千津:「そっか」「ふみちゃんはそっち側の人になっちゃったか」「て したのはあたしか」

万城目ふみ:「そんな言い方しないで」

花城千津:「友達? もうつきあってるの?」

万城目ふみ:「……友達」

花城千津:「それじゃつらいね」「あたしよりも好きになれそう?」

(中略)

花城千津:「うちの子ちょっとふみちゃんに似てる」「やっぱり血がつながってるんだなぁて」「女で」「いとこで」「やっぱりあたしはそっちには行けないの」

(「青い花 5巻 pp.132-135」)

 

どちらも傲慢に描かれている面があると思う。

交際をしたからといって必ずしも添い遂げる必要はない。しかしながら、「ふみちゃんはそっち側のひとになっちゃったか。て、したのはあたしか」「沙弥香ちゃんは普通の子だったのに 私に付き合わせちゃったせいで…その…」と他人の性質が自分によって定まったかのように語る二人は、傲慢に見える。

柚木千枝が花城千津とわかりやすく異なっているところは、女どうしの恋愛を「遊び」と言い切る点にある。花城千津は自分と万城目ふみの断絶を示すように「そっち」という言葉を使うが、花城千津にとって女どうしの関係は、選べなかった道であって、遊びではない。そういうことをふまえると、柚木千枝を際立たせる特徴は、無自覚さにあるように思える。

一方で柚木千枝がどれだけ無自覚だったのかは正直わからない。素直に読めば彼女は恐ろしいほどに無邪気だったのかもしれない。女が女を好きになるなどあり得ないと思って「遊び」なんて言葉を吐いたのかもしれない。

しかしながら、柚木千枝はだんだんと真剣になってゆく佐伯沙弥香を見て、自分が興味本位だったことにやっと気づいて、こわくなったのかもしれない。自分が責任のとれないことをしたと気づいて、だから「遊び」だったことにして全部なかったことにしようとしたのかもしれない。もしくは最初は遊びではなくて、キスをして、だんだんと自分が思っていた恋愛と違うことに気づいて、それで「遊び」と言う言葉を持ち出したのかもしれない。そういう感情の変遷があったとして、柚木千枝はそれに気づいていたかもしれないし、気づいていなかったかもしれない。

 例えば柚木千枝が自分の感情と相手の感情のズレを明確に言語化して別れを告げたなら、佐伯沙弥香もあそこまで彼女を絶対的に拒絶することもなかったかもしれない。

しかし、そうはならなかったし、結果的に佐伯沙弥香は七海燈子に出会った今を肯定的に生きている。これで、柚木千枝の話は終わりだ。