私に合わなかった小説1選(野﨑まど『2』)

合わなかった小説について語ること

2025年8月頃、Xで「#私にあわなかった小説10選」というハッシュタグが話題になった。炎上した、と書かないのは、そもそも「#私にあわなかった小説10選」というハッシュタグが一定程度使われていた実態があったかがかなり怪しいからだ。当時このタグで検索しても、実際には「#私にあわなかった小説10選」についての考えの表明ばかりヒットした。実態の薄いハッシュタグに考えを表明しても空虚な指摘である感じもするが、しかしいろいろな考えに触れられるのは面白かった。

当時、色々な意見があったが、個人的には、「合わなかった」ことについて考えたり、その考えについて読んだりすることは、結構面白くて刺激的なことだと思っている。私が好きな小説について、他の人が「合わなかった」という語りを読むと、違う視点からその作品のことをもっと知ることができるし、その人の方が私よりもよっぽど作品を深く読み込んでいることもある。あるいは自分自身がこの作品のどういうところが合わなかったと考えることは、私が作品に向き合う在り方についての理解を深めてくれる。

もちろん、作家自身がそういう話を読みたいかはわからない。当時も、いろんな言及があったと思う。SNSで以前より距離が近くなってしまったがゆえに色々思うところもあるが、ただ、わたしは基本的に作家本人に話しかけるのでもない限り、「合わなかった」ということについて話すのは自由だと思いたいと考えている。

しかしながら、リスト化するのはいただけないという意見もあり、それはわからなくもない。つまり、単にリスト化するだけだと、その人がその小説を読んでどこが合わなかったのか、というところはあんまりわからない。好きな作品の10選であればなんとなく傾向がつかめたりするのだけど、合わない作品を好んで読む人も多くないだろうから、10選でも傾向がつかみにくいことが多い。そして、上記のように、「合わなかった」という語りは有意義な側面を持っているが、リストには、その有意義な情報が含まれない。

よって、私の立場としては、「合わなかった」小説に語ることについては悪いことではないと思っている。一方、「合わなかった」小説を単に羅列するだけだと、「合わなかった」小説を語ることの良さが失われると思う。

というわけで、タイトルの通り、野﨑まど『2』が合わなかったという話をしたい。
(途中までネタバレなし、途中からネタバレありの感想になるよ)

 

なお、この記事は、読書感想文 Advent Calendar 2025 12月8日の記事となっております。

 

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野﨑まどという作家

まず、野﨑まどについて簡単に紹介する。私は一部の作品しか読んでいないが、私が読んでいる範囲の野﨑まどはSFや創作に関する作品をよく書いており、何かを突き詰めた際に立ち現れる、飛躍した結論の提示に魅力のある作家である。

野﨑まど作品を初めて読むという人に薦めたい作品は、『タイタン』だ『タイタン』は、ほとんどの人が仕事をする必要がなくなった世界が舞台だ。主人公も、趣味として楽しむために研究めいたことをしているが、日々を生きるためにお金を稼ぐ行為としての仕事はしていない。そして主人公は、ひょんなことから、地球上ほとんどの仕事を担っているAIのカウンセリングという大仕事に臨むことになり、『仕事とは何か』という問いに向き合うことになる。
『タイタン』は他の作品に比べると結論の部分が物足りない面もあるのだが、しかし舞台設定や過程も含めて順当に面白いので、野﨑まど作品を初めて読むという人に薦められる。また、ここでいう結論とは結末とは少しズレるものであり、結末もちゃんと面白い。

個人的に結論の部分が一番好きなのは『know』で、舞台設定も面白いが、『知る』ということを突き詰めた先に、最後に辿り着く結論が面白い。ただ、途中の展開が割とライトノベルじみていて、好みは分かれそうかな、と思う。

(そもそも野﨑まど作品はライトノベルっぽいんだけど、『know』はなんかラノベっぽいバトル展開とかがある)(『タイタン』は比較的ライトノベルみが薄いので、そういう意味で『タイタン』は薦めやすい)

他に、今回語る『2』に関わりのある作品でいうと、デビュー作の『[映] アムリタ』を薦める人も多いかもしれない。『[映] アムリタ』は映画をテーマにしていて、『人を感動させる映画とは何か?』を突き詰めていく。SF色を全面に押し出した作品ではないが、しかしSFのような刺激を与えてくれる作品でもある。

そんな感じで、野﨑まどという作家は、SFや創作を題材にして、テーマを突き詰めて行った先に現れる結論の提示が魅力的な作家であると言える。

 

集大成としての『2』

いよいよ、『2』の話だ。まだネタバレはしない。

先に言っておくと、私は『2』という作品が合わなかったが、それはそれとして『2』という作品はめちゃくちゃ面白い

『2』は主人公が超激ヤバな劇団の超劇団『パンドラ』の入団オーディションに通過するところから始まり、新たに入団した主人公たちは15人で新人公演をすることになる。(超激ヤバな劇団というのは私の形容であり、超劇団というのは作中の正式名称である)

果たして主人公はやっていけるのか? 超劇団パンドラに入団した主人公が新人公演に臨む流れでは、荒唐無稽な展開を強引に書き上げる野﨑まどの筆致が遺憾無く発揮され、演劇に限らない創作の苦しみと喜びが魅力的に描かれている。

 

ここで敢えて「創作」という言葉を選んだが、『2』のテーマは、創作そのものである。そして、『2』は、野﨑まどのデビュー以降、5つの作品の集大成である。集大成というのは単にその作家のそれまでのテーマが盛り込まれた作品を指して言ううこともあるが、『2』に関しては、テーマ面の集大成であることに加えて、シンプルに以下の5作品の続編として描かれている。

 

『[映] アムリタ』

『舞面真面とお面の女』

『死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~』

『小説家の作り方』

『パーフェクトフレンド』

 

全体的にライトノベル的なテイストだが、それぞれ面白い作品なのでそんなに苦ではない。ただ、流石に5作読んでから『2』を読んでねと人に薦めやすくはないし、私も軽々しく薦めない。(だからこそ「合わなかった」という話をリアルではあんまりできていない!)

順当に面白いのは『[映] アムリタ』、個人的に好きなのは『小説家の作り方』と『パーフェクトフレンド』。後者の2作は、『2』という作品に続いていることは知らずに、過去に単品で1作ずつ読んでいたけど、普通に面白く読めた。どういう風にこの5作が『2』という作品に繋がっていくのか、それは……読めばわかります。

というところで、『2』は野﨑まどの初期作品の集大成であり、しかもテーマは『創作』である。そして野﨑まどは、このテーマを描くことにある意味で成功しているとわたしは思う。『創作とは何か』について野﨑まどは一定の結論を出し、それが成立しているかはともかく、突拍子もない突き詰め方と結論の提示は魅力的なものである。『タイタン』を読んだときは、『2』くらい突き抜けてくれてもよかったよ? と思った。

では、なぜ私にとって『2』は「合わなかった小説」なのか? それについてはネタバレをしつつ話していくことにする。

一応言っておくと、『2』と言う作品について、そんなに合わないという感想をよく見る感じはしません。完全に私が勝手に言っているだけです。

みんなも野﨑まどの初期作品5作を読んで『2』を読もう!

 

 

<以下ネタバレあり>

 

以下『2』を含む野﨑まどの初期作品6作のネタバレあり

 

以下『2』を含む野﨑まどの初期作品6作のネタバレあり

 

以下『2』を含む野﨑まどの初期作品6作のネタバレあり

 

『2』のめちゃくちゃ面白い部分

まず、『2』のめちゃくちゃ面白い部分から話す。

前述した通り、超劇団パンドラパートが普通に面白い。劇団員の演技を見せられて新人たちの心が折れ、わずかに残った3人でボロボロになりながら公演を達成する。このパートは普通にめちゃくちゃ面白い。下の文とか、めちゃくちゃ刺さる。

 

自分の一番尊敬する人に、自分が何もできない人間であることを見せる。そのために身を粉にして舞台を作る。(野﨑まど『2』)

 

その上で、超劇団パンドラは、『2』という作品において前座に過ぎないことが発覚する。突如現れた最原最早という少女によって、超劇団パンドラは壊滅させられる。(バトル漫画?)

この辺りの荒唐無稽な展開を強引に成立させる文章がかなり良い。たった一言、「愛してる」の演技だけで劇団が壊滅する。新人たちの心を追った先輩劇団員たちの心が折られる。ハイパーインフレ展開。

(最原最早は既に『[映] アムリタ』に登場しているので、そういう意味ではインフレしていないのかもしれない)

その後はまさしく集大成という感じで、最原最早を軸にして、過去作のキャラクターが集合していく。(集合はしていない)この展開も面白いが、何より最高なのは、やはり『創作とは何か?』という問いに対する答えとして、『人間とは何か?』という問いが現れ、その両者を貫く以下の回答が提示されるシーンはまさに圧巻と言ってよいだろう。

 

全ての創作は、人の心を動かすためにある

「愛とは、人と関係したいと思う欲求です」

「そして創作は、人の心を動かせる」

だから私達は創らずにはいられない

「人を、愛したいからです」(野﨑まど『2』)

 

創作とは、人を感動させるために進化してきた文化であり、 人とは、 創作に感動するために進化してきた生物なんです」(野﨑まど『2』)

 

上記の回答にある「人とは、創作に感動するために進化してきた生物である」という結論は、一見すると意味不明である。しかしながら、『2』の読者には、この結論が、一定程度の強度を持った回答であると感じられる。

こういうハッタリは野﨑まどの真骨頂であるし、何より、『2』の読者が創作に思い入れを持つ人たちであることは疑いようもない。それは、単に小説を好んで読む読者が想定されるというわけでなく、ここまでの5作品を読んできた人間は、大なり小なり、野﨑まどの語りに付き合ってきた人間だ。だからこそ、上記の回答は、個人としても創作に思い入れを持ち、そして野﨑まど作品を読み続けてきたものにとって、魅力的で興味深い回答になっている。

 

『2』のめちゃくちゃ合わなかった部分

では、『2』の何が合わなかったのか、それは駄洒落である。『2』の終盤では、凄い映画をその映画を見せるために育てられた子供(最原最早の娘である最原最中)に見せることによって、最原最中が天使になるという展開が描かれる。天使になった最原最中の頭上には光輪が現れ、それを見た登場人物がこんなことを言う。

 

心を動かしたんだよ!! 脳の外に!!」(野﨑まど『2』)

 

野﨑まど作品は一作目の『[映] アムリタ』の時点で感動(「心を動かすこと」)というものを大きく曲解することで、SF的な面白さのある作品をつくっている。確かに、「感動するということは偽物の記憶で上書きされて人格まで変化することだ」という理屈はどう考えても詭弁で、その延長戦上に「心を動かしたんだ! 脳の外に!」という台詞が存在することは言うほど不思議でもないのかもしれない。上の台詞もここだけ切り抜くと不誠実で、地の文では脳の拡張とか、それっぽい説明がきちんとされているし。

が、やっぱり「人とは、 創作に感動するために進化してきた生物」という転倒的で興味深い結論を提示した後に、「映画を見て心を動かす(※脳の外に)」という展開は、ちょっと、やっぱり間抜けじゃないだろうか。いや、そんなこと言ったら『[映] アムリタ』の時点で荒唐無稽じゃん、と言われたら、反論できないんですが。

どこまでハッタリを許容できるか、どこまでハッタリを楽しめるのかというラインは各自にあるんだろう。私は『[映] アムリタ』を楽しめて、その他の野﨑まど作品も楽しめて、ただ、『2』だけは許容範囲を超えていた。

いや、『2』に関しても、他の部分のハッタリは割と受け入れている。例えば、語り部である主人公をめぐるトリックとかは、普通に受け入れて、楽しむことができる。

「いや」と「やっぱり」が並んでいる……。合わなかった小説について書くのは難しい。

 

究極的には、「天使になったから何なの?」という気持ちなんだと思う。

例えば、『know』では、ある種の究極の『知』が描かれ、その『知』が何をもたらすのかが描かれていた。だからこそ野﨑まどが提示する結論の中では、私は『know』が一番好きなのだ。

その一方で、 『2』は「人とは、創作に感動するために進化してきた生物である」という外連味たっぷりの結論を提示してくれたのに、その先にあるのが神様とか天使とか言われても、そうなんだ……と思って冷めてしまう。もっと神や天使に関心を持っている人は、「神をつくるだって! なんてこった!」と驚いたり、「天使になってしまうの!? ファンタスティックな展開だこと!」と感心したりするのかもしれない。(つまり心を動かされたのかもしれない)

一方、私は「天使になる」という展開に心を動かされなかった。いや、「萎え」とか「呆れ」という感情はたっぷりあったから、むしろ心を動かされたんだろうか。『2』という作品に対して私が最終的に抱いた感情は、「勝手にやっててくれ」だった。実際、天使が生まれようが、神様が生まれようが、それが世界に大きな影響を与えるわけでもなく。(過程で色んな人に迷惑はかけたけど……)なんか人知れず映画撮っててくれ……。

いや、世界に影響を与えることが重要とかではないんだけど。「だから何?」という気持ちを抱かせないでほしいというか。……また「いや」と書いてしまった。

 

なんというか、やっぱり合わなかった小説について話を落ち着けるのは難しいと思う。なんというか、落としどころがあまりない。

舌鋒鋭く批判をするのであれば、それはそれで落としどころがあるんだけど、合わないなぁというのは結局うーん、話の持っていき方が難しい。

敢えて言うなら、私の読書順に問題があった可能性がある。

つまり、私は『know』を先に読んでしまってから『2』までの6部作を読んでいる。その結果として、6部作なら『know』くらいの景色を見せてくれるんだよな、という気持ちになってしまっていた節はある。むしろ、『2』でぶっ飛んだ結末を描いてくれた野﨑まどが『know』で単にぶっ飛んでるだけはない結末を書いてくれて本当に最高だった!という感想になる順番で読むのが適切だったのかもしれない。

 

あと、結末に悲しくなってしまう。理由としては『パーフェクトフレンド』を読んでいるからこそ、今後さなか(最原最中)と理桜は友達として会ったり話したりできるのかな……と思ってしまうところはある。いや、俺は『パーフェクトフレンド』は6部作のうちの1つだって何も知らずに読んでしまったという経緯があり……。というか『2』においてはさなか自身の気持ちってほとんど見えないので、そこが悲しいというか。

人ならざるものになったさなかが何を想い、何を感じるのか。(もちろん母を失った部分とかは描かれているのですが)そういうものが描かれていれば、ひょっとすると、「さなかが天使になる」という展開に納得できたのかもしれないし、(悲しいとしても苦しいとしても)「天使になってしまった」ということに心を動かされることができたのかもしれない。

 

というわけで、『2』という作品はめちゃくちゃ面白いのですが、しかし、「私に合わなかった小説」でした。