小説:人形になりたい
熊のぬいぐるみはため息をつく。
「キミは人間だからそんなことが言えるんだ」
その瞳は、クレヨンで塗りつぶしたみたいな真っ黒い色をしている。きっとそれは、夢にあこがれる純粋な色じゃない。目のなかの白い部分をぐりぐりと黒く染めた、諦念のような色だ。深夜、真っ黒な部屋だから、よけい黒々と見えてしまう。
「そうかもしれない。でも僕は今、人形になりたい」
熊のぬいぐるみは抱き上げても、高い高いをしても眉ひとつ動かさない。無表情に、諦めに満ちた瞳で、僕のことを見透かす。
「ボクは人間になりたいよ。人間になったら、パスタをゆでる。一緒にワインを飲もうか。それからカジノで儲けて、雌のぬいぐるみとダンスして踊り明かすね」
熊のぬいぐるみは雄だ。つがいとして雌のぬいぐるみも売られているが、この部屋にはいない。僕が買っていないからだ。後からペットとして追加された猫のぬいぐるみなら持っているが、熊とはどうも折り合いがつかないようだ。
「悪いけど、あの雌のぬいぐるみのデザインは好みじゃない」
熊のぬいぐるみは勘違いするな、と苦笑いする。
「そんなことは知ってるさ。たとえ話だよ。キミは何でもできる。ボクみたいな受身な存在とは違うんだ。何でもできるのに、何にもできなくなりたいなんて、おかしな話じゃないか」
確かに、熊のぬいぐるみと比べたら、僕にはいろんなことができる。手を使えば熊のぬいぐるみを撫でることができるし、足を使えば遠く遠くに進んでゆける。にんじんを食べられる。アパートを燃やすことだってできる。会議中に、「みんな伏せろ!」と突然叫ぶことさえも思いのままだ。
しかし、僕はできることのうち、ほとんどをやらない。にんじんは嫌いだし、アパートを燃やしたって自分の首をしめるだけだ。会議中に叫んで神妙な顔をした上司の間抜け面でもおがめれば楽しいけど、その後どうなるかはわからない。可能性として、僕にはいろんなことができる。それでも、僕はいろんなことをやらずに生きてきた。これからもそうだろう。
「人形になったら、そういう説教もされずに済むんじゃないかな。何もできないんだから」
熊のぬいぐるみは黙ってしまう。
こういうとき、彼の瞳がいくらか悲しげに見えてしまう。きっと気のせいだ。ちょっとしたシミに人の顔を見出してしまうほど、人間は意味を求める。意味を求めるから、ありもしないものが見える。熊のぬいぐるみは涙を流さない。表情も変えない。彼の言葉だけが、彼の真実である。
「ボクとキミは平行線だね。立場が違う」
だけど、熊のぬいぐるみは本心を呑み込むようなことを言う。
それなら僕も、嘘をつこう。
「そうだね。きっと僕も君になったら、動き回れるようになりたいって言うに違いない」
朝焼けはいつも白々しい。
朝を迎えたくない本心を覆い隠して、世界がすがすがしくなったかのように錯覚させる。