日記:『夜は短し歩けよ乙女』

 あれこれと異なった面白味を追い求め続ける、というのはおもいのほか難しい。

 人は、悲しみや苦しみと向き合わなければならないことが多い。自然、面白いことからテーマを引き出すより、悲しみや苦しみからテーマを引き出すほうが楽だ。テーマは、共感できない人間にさえ何かをつきつける。しかし面白味は違う。それはパフォーマンスであり、観客を面白がらせることができないのならすべて無意味だ。面白がらせようとしているのに面白くないその悲哀が、人間を魅了することもあるけれど、それはやっぱり副産物である。面白味、というのは逃げ場なき真剣勝負だ。

 ネタバレありません。

 

 「夜は短し歩けよ乙女」というのは、面白味を追求した作品なんだと思う。きらきらと輝く万華鏡にも似ている。特に黒髪の乙女の視点から書かれた部分はそうなっている。要素としての面白味は、森見氏の作品にはつきものである。文体、なんだかよくわからないやつら、なんだかよくわからないまちの様子。「太陽の塔」は薄暗いどろどろとした何かを描きつつ、それを面白味のような形で昇華させる作品だった。テーマっぽい何かが強く、それがいい。「四畳半神話大系」もたいそう面白い物語だが、鋭く練られた構成によってパノラマ的な可能性を描く妙味が強い。そこには長期的展望がある。物語の面白味だ。しかしテーマや物語の強み、敢えてそういうものを取っ払った先に、「夜は短し歩けよ乙女」が描く面白味の追及があるのではないかと思う。「夜は短し歩けよ乙女」の物語に色鮮やかな個性はあっても、その筋は存外シンプルだ。どちらかというと、アトラクションに近い。アトラクションはそれに浸っているあいだ快楽を得られなければ、それで失敗だ。一分一秒、一文一文字も余さず面白味で埋め尽くすというのは、膨大な作業量であり、そして冗長にならないための奇想を試される。これをやってのけるというのは、とても恐ろしいことだ。

 小説の感想なのか、映画の感想なのか、書いてなかった。映画を見たことで思い出した、映画と小説を複合した何かへの感想だと思う。

 恥ずかしいことに自分は、「夜は短し歩けよ乙女」の後に「太陽の塔」「四畳半神話大系」を読み、そのテーマや物語に惹かれ、「夜は短し歩けよ乙女」はただ面白いだけの話だったかもなぁと思っていた。しかし考えてもみよう。ただ面白いだけで読ませる、魅せる作品こそ、最も恐ろしいのではなかろうか。

 

 と書いてみたけど、映画版の最後には、テーマ性のようなものが覗いていたような気もする。見てない人は見ましょう。