日記:感想を書くこと

人の感想を読むことが好きだし、自分で感想を書くのもそこそこ好きだが、書いていると定期的に飽きる。

何故感想を書くかといえば、自分も人の感想を読むのが好きだから、という面が強い。しかしながら、自分で感想を書いていると、「自分の感想よりわかりやすくて自分の感想より広範囲をカバーした感想がどうせあるだろう」とか、そんなことが気になってくる。すると、人が触れていない点について触れたほうがいいのかな、と思ったりして、だんだん書くのが面倒になってくる。

どうせ書く力もないし、ツイッターに「泣けた」とか「よかった」とか一言書けばそれで済むんじゃないかという気分になる。

 

 

なんでもかんでも「エモい」という言葉で片づけることに憤っている人がいて、それは「泣けた」でも「笑えた」でも「よかった」でも「凄かった」でも「面白かった」でも変わらないんだと思う*1

自分の中の感情を月並みで画一的な定型文に回収することでぜんぶ済ませてしまうという点で、上にあげた言葉は似ている。

ただ「エモい」という言葉で片づけることに憤っている人が、どこまで自分の感情に誠実に向き合って、それを言葉にする努力をしているのかわからない。

「泣けた」や「エモい」が不誠実だとして、映画の感想で例えるなら「前半の幸せな日々の描写と、それが失われた後半の落差が切なかった」と言えば誠実なんだろうか。すこし具体性を増して、説明を付け加えて、それで満足なんだろうか。わからない。わからないが、私が書く映画の感想なんて、具体的な箇所を提示して、それについて「よかった」「悲しかった」と書いていくだけだ。そういう点で、なんでもかんでも「エモい」「よかった」「泣けた」で終わらせる人とそう変わらない。説明の解像度がちょっとだけ上がっているだけだ。

どれだけつまらない形容表現を並べたって同じことだ。「心臓が引き裂かれるほど悲しかった」と言ったとしても、それは本当に自分の感情に沿った言葉だろうか? 「悲しかった」だけで終わらせないために「心臓が引き裂かれるほど」なんて付け加えたって、そんなものは小手先の技術でしかない。読ませる文章を書きたい人なら、バリエーションを増やすのは大切だ。しかしながら、面白くて読ませる感想は一つの創作であって、自分が感じた何かと既に乖離していることも少なくない。

自分が感じた何かを、分析を通して突き詰めていくのが評論という行為なら、それこそが誠実なのかもしれない。そうなると、ますます私のような知識のない人間が感想を書く意味がなくなっていくのかもしれないけど。

ちなみに私個人は「エモい」や「泣ける」で済ませるような使い古しの定型文みたいな感想にも意味はあると思っている。質として優れた感想や評論に及ばなくても、量としてそういった感想が存在することが価値を持つと信じているからだ。下手な小説を書く素人としては、どんな言葉であれ、1という数字の価値がとんでもなく大きかったりする。

 

ここまでつらつら書いた内容は、結局私の感想なんて「エモい」の一言で終わらせる行為とそう変わらない、というものだと思う。

それでも、ここまでなんとなく文章を書いていたら、感想を書く理由がちょっと見えてきたかもしれない。

映画を見終わって、小説を読み終わって、すぐに作品から離れるのが悲しいのだ。

素晴らしい作品に触れている時間を、二時間で終わらせたくないからこそ、その作品と触れ合っている時間を増やしたい。だから感想を書く。言葉にしようとする。言葉を重ねたって自分の感情を正確に把握できるわけでもないのに、把握したからといってそれに大した意味はないのに、言葉にしようと努力している時間そのものに意味がある。

ただ無言で別れるのが寂しいだけ。何も言わずに見送るのが寂しいだけ。

それなら、私にとっての感想とは別れ話であり追悼なんだろう。

そう考えると、感想を書くのがおっくうになってくる理由がよくわかる。

別れ話や追悼をしょっちゅうやっていては、疲れて当然だ。

 

(なんとなく文章を書いているとき、着地点をつくろうとするのが私の悪い癖だと思う)

(強引に文章をまとめようとすると、最後に嘘をつくことになる)

(例えば、感想を書くのが楽しい時期は、楽しさが誰かに伝わってほしいと思って書いていることも多い。これを追悼と評するのは無理がある)

*1:もちろん、「エモい」に憤っている人も色々いる。例えば、自分の理解にない新奇な表現に対する嫌悪感がある人もいる。そういう人は、「泣けた」という表現には憤らないだろう。