日記:「万引き家族」

この作品を語る上で、最初に書いておかなくてはならないことが、この作品は家族の絆を全面的に肯定する作品ではない、ということです。

「盗んだのは、絆でした」というキャッチコピーなんてもってのほかだと思います。製作陣がつけたのかもしれませんが、難しい題材をバランスよく描いている作中の描写とは乖離している印象があります。まぁ、「絆と言ったとしても、結局それは盗んだものなんだ」という意味も含んだコピーなのかもしれませんが、CMを見る層がそう受け取るのかはよくわかりません。

犯罪や嘘という危うい基盤で成立している絆のようなものを描いたシーンがあるかと思えば、その関係を支えるものがやっぱり怪しく駄目なものであることを示すシーンがある。この作品は劇中で積極的に絆を肯定せず、あくまで現実的結末を用意した上で、その評価を観客にゆだねる内容になっている。そのバランスは、完璧なものになっていると思う。

とある登場人物の結末をどう受け取るか、というところが難しく、観客に色々と考えさせる余地を残しているところまで含めて完璧なバランスだと思う。

 

というわけで、是枝監督の最新作です。パルム・ドールです。まぁパルム・ドールとかよくわかんないし、カンヌの人たちがどういう基準でこの作品を選んだのかさっぱりわかりませんが。

是枝監督の作品に関する過去の言及はこちら。

日記:「歩いても歩いても」 - しゆろぐ

日記:「海街diary」 - しゆろぐ

過去の作品にも言えることだけど、やっぱり登場人物の自然な会話というか、生活感というか、本当に生きている人の暮らしを切り取ったような生っぽさが凄い。その上で日雇い労働や性産業の様子が描かれたりするわけで……もちろん(それらと並べるのが適切かはわからないが)タイトルになっている万引きも生っぽい生活の中のワンシーンとして描かれていて、苦しい。

決して「万引きで生計を立てていた家族が組織からヘッドハンティングを受けて、敵組織の機密文書の『万引き』を依頼される」といった痛快娯楽映画ではないので、見ていてきつい場面も多いですが、そういう中でこそ描かれる絆(みたいなもの)と正しさ(みたいなもの)についていろいろ考えたい人にはおすすめの作品です。

以下、ネタバレ。

万引き家族「オリジナル・サウンドトラック」

万引き家族「オリジナル・サウンドトラック」

 

 

 

ここまで、絆(みたいなもの)と注釈をつけているのはやっぱり思うことがあるから。

この作品は、金や生活のためにつながっていて、お互いの事情さえも知らないような疑似家族を描写する中で、たぶん確かな絆を描いている。それは嘘じゃない。少なくとも、そのときだけは本物。

でも、そういう生活を続けることが子供のためになるかと言えば、それはかなり危うい。というか、確実に子供のためにならない。学校にも通えない。あの家族は、子供の将来を奪っているととらえることすらできる。だから、あのままではいけなかった。

実際家族の崩壊は、凛のことを案じた祥太の変化がきっかけである。あの家族は確かに祥太や凛に様々なものをもたらしたが、あのままでいたら、樹里(凛)の本当の母親と同じくらいにたくさんのものを彼女から奪っていたかもしれない。

この作品は絆という言葉でそれを美化しない。警察からの尋問に対して、信代はいくらか言い返すこともあるし、樹里(凛)の本当の母親に対して批判的な面も見せる。でも自分も凛(樹里)のためにいろいろなことができていなかった、もしくはこれからできないのだということに信代は自覚的で、だから祥太に本当の母親の手がかりを教える。

この部分は単に善悪の問題ではなく、本物の絆が描かれた上で、それの無力さをも描いているということなんだろうと思う。つらい。

そして前半に書いたけれど、樹里(凛)の結末をどう受け取るか、というところが難しい。

人によっては、彼女は成長したと、だからただ虐待に耐えるだけの子供ではなくなると言う。

人によっては、彼女は「家族」の思い出だけを胸に抱いて待つことしかできないと言う。

どちらもありそうだと思うけれど、物語上の作用として、あの結末は「正しさ」に対する批判なんだろうと思う。「正しさ」の象徴たる警察は正しいことをしている。ものを盗むことが正当化される社会は成立しない。あの家族は間違っている。でも、一方で、「正しさ」が樹里(凛)を救うわけでもない。

 

スイミーのたとえがあった。小さい魚が寄り集まって大きな魚に対抗する。それだけなら、あの家族は正しい。でも実際にはあの比喩は間違っている。寄り集まった小さな魚は、自分たちと同じように小さな魚や、少し自分たちより大きいだけの魚からも奪っている。だから、あの家族は肯定できない。

一方で、ああいう選択をしてしまう人に対して、「もっとやりようはあったはずだ」という批判も意味をなさない。そういう「やりよう」を選べないことにこそ貧困や犯罪の隣で生きることになる人間の問題がある。

社会が機能を維持するためには、犯罪を取り締まる必要がある。しかしその一方で、上から目線で説教をすべきかと言えば、それは犯罪を取り締まることとは別の問題だし、その個人がどれだけ選ぶことができたかというと難しい。

逆に言えば、犯罪を取り締まるという社会制度を肯定しながら、個人に寄り添うことはできるはずなのに、そうはならないことが多い。それが悲しい。

 

ここまでテーマ的なことについてうだうだ書いてきたけれど、テーマだけが大事なら討論でもすればよくて、映画を見る必要なんてない。フィクションであるがゆえにメッセージに対して都合のいい描写で思考が歪められる可能性すらある。

でも正直、細部の描写について語っていくとキリがないみたいなところもある。

 

素麺とか歯を屋根の上に投げるシーンとか、いかにも日本的な生活描写だけど、ああいうのは世界に向けて邦画を取るうえで受けがよかったりするのかね、と邪推。そんなこともないか。

 

凛と「家族」の一員の交流が行われるシーンが好き。

風呂場で、同じ火傷を共有する信代と凛。散髪のあと、二つ名前があるという事実を共有する亜紀と凛。凛は亜紀の源氏名に対して「凛のほうがいい」と言うわけだけど。

生活が息づいた、日々に必然的に起こる場面の中で確かに何かが深まっていく描写が魅力的。

 

さんざん描かれている万引きの描写も、「あぁ」という気分になるし、犯罪だけど、疑いを持ち始めた祥太の前で治が窓ガラスを割って車上荒らしをするシーンの「決定的」な感じがうまい。作中で描かれる万引きは治と祥太、祥太と凛の絆を描く一つの装置でもありながら、やっぱり人から物を奪う行為であり、家族に感情移入させながら「やっぱり……」と思わせるバランス感覚が本当に見事。

不穏さをイメージさせながら、ただの不穏に落とし込むわけではないBGMも、そういうバランス感覚の妙に一役買っている。

 

家族が警察に連行されるシーンを描写しなかったのはちょっと逃げかなとも思った。

夜逃げの最中にライトがあたったかと思えば尋問シーンに移るわけだけど、あそこで家族や警察がどういう行動をとるか、という描写は絆(みたいなもの)を描くにしても、正しさ(みたいなもの)を描くにしても避けては通れないところじゃないのか、とか。まぁでもそこを無色にしておくことも全体の構成としては仕方ないところなのかなーと思ったりもする。

 

まぁいろんな人がいろんなことを書いているのでこんなところで。

凄かったけど、しばらくこういう映画は見たくないな。サメ映画とか見たい。

ここまで書いといて何ですけど、家族の話苦手なんですよね。