日記:「街の灯」

 「何によらず、物事というのは汽車の窓から眺める風景のように、我々の前を過ぎて行く。その中から、≪おや、あれは何だろう≫≪どうして。あんなことになるのだろう≫という疑問を見つけるのは、実は、想像以上に難しいことなのだよ」(p.208)

「街の灯」は昭和初期を舞台にしたミステリ小説である。

主人公は上流家庭の娘。北村薫の繊細な文章が、上流家庭の娘の瞳に映る当時の東京の雰囲気を克明に描いている。繊細な文章といって、ただ美しい描写や綺麗な描写、現代の私たちから見てノスタルジックに見える昭和初期の描写が巧いだけではない。むしろ、人の心に闇を落とすような翳りの描写がすこぶる上手で、それさえもどこか美しく思えてしまって、ため息が出る。

雰囲気の描写としては、途中で出てきた主人公と友人の暗号通信が面白い。「二人の間で特定の本を指定する。そして、何ページ・何行目・何番目の数字だけを書いた紙を渡す。選んだ本を確認して、そのページのその行のその文字を確認すれば、数字の意味が解読できる」というもの。やっていることはオーソドックスな暗号でありながら、鍵が「即興詩人」であるというだけで、なんとも面白い情感が漂う。

さて冒頭に引用した文章だが、叔父がさまざまなことを疑問に思う主人公をほめたものである。これは私が先日読んだ「太宰治の辞書」と通底する作者の精神があらわれたものだろうと思う。

日記:「太宰治の辞書」 - しゆろぐ

そもそも人は何かに疑問を持つことさえできないことが多い。その中で疑問を見つけることそれ自体に価値があり、面白みがあり、ミステリがある。

新聞で知った事件の謎を追う「虚栄の市」、兄の友人が仕掛けた暗号を解読する「銀座八丁」、避暑で訪れた軽井沢の映画上映会にて起こった怪死事件を扱う「街の灯」。本作は三つの短編から構成されているが、このつくりもうまい。「虚栄の市」で起きる事件は人の死を扱っているがあくまで主人公にとっては自分からは遠い出来事としての新聞の謎であり、「銀座八丁」は当事者であるがあくまで内容はお遊びの暗号の謎。そして、「街の灯」は身近で起こった怪事件に向き合う。

冒頭の引用のように、疑問を持つ能力を褒められる主人公だったが、それは必ずしも面白いものを解き明かすだけではない。身近に起こった事件の謎を解くということは、身近な人間のたくらみを暴くということにもつながる。

そんな謎に挑むのは、名家の娘である主人公と、女でありながら彼女の運転手に任命された凄腕の女性「ベッキーさん」。ミステリの王道でいけば、いかにも探偵役を務めそうなのは運転手のほうなのだが、ベッキーさんがヒントを与えて主人公が謎を解く、という形式をとっているのも面白い。

そんなこんなで、以下ネタバレ

街の灯 (文春文庫)

街の灯 (文春文庫)

 

 

 最後に印象に残ったのは、「街の灯」だった。

「さあ……。お考えになるのは、お嬢様でいらっしゃいます。……ただ、本当にお考えになりたいのでしょうか」p.238

事件について考える主人公にこう告げるベッキーさんの言葉は、冒頭に引用した純粋な褒め言葉の時代から遠く離れた様相を呈している。疑問に思うこと、わかるまで考え続けること、それは凄い能力なのだが、いいものを掘り起こすとは限らない。それでも主人公は考え続ける。

犯人と探偵の対決というのはロケーションが大切だが、その対決に「鬼押出し」という溶岩が固まった景勝を選ぶ点にも作者のセンスが光る。

「街の灯」のクライマックスで明かされるのは事件の真相だけではない。道子という一人の人間の内心も白日のもとにさらされる。男を駄馬と切り捨てたかと思えば、自分も駄馬であると言って、さらに「人が駄馬に見えてしまうのは、自分が駄馬であるからに他ならない」という自分に関する解釈を、チャップリンの『街の灯』の感想とからめながら滔々と語る。私はこのシーンがどうにも頭に貼りついて離れない。

 

主人公とベッキーさんの関係がとてもいい。

上流の世界に関する疑問を抱きながら、それでもその世界から抜け出ることを想像すると恐ろしくなると主人公が言う。貧しい人の暮らしを目の当たりにした主人公はこう語る。

「我々のような人間とそうでない人達のいることは、とても不当に思える。でも、実際に、今のような家を見て、≪あそこに住め≫といわれたら、震えてしまう。とても出来ない」pp.263-264

この言葉に対してベッキーさんが告げる言葉が、優しくも厳しく、そして優しい。

「≪あのような家に住む者に幸福はない≫と思うのも、失礼ながら、ひとつの傲慢だと思います」p.264

基本的にベッキーさんは行儀のいい従者であり、主人公のことを立てて行動する。しかし、上のシーンや、江戸川乱歩に対する偏見について彼の言葉を引用して反論をするシーンなど、ベッキーさんはときに厳しくも優しい言葉をかける。そして主人公はそんなベッキーさんの聡いところを認めた上で、彼女の言葉をしっかりと噛み占める。その関係が心地いい。

これで、従来のミステリ小説よろしくベッキーさんが凄腕の探偵役、なのではなく、あくまで謎を解くのは主人公であるという点でも、とてもバランスのいい二人の関係が保たれていて面白かった。