日記:名作映画を全然見てない自分に劣等感を覚えていたころ
世界は傑作であふれている。
映画、小説、舞台、音楽、詩、見識がないから列挙も下手だが、あらゆる世界にたくさんの傑作がある。傑作とされているものがある。
ミステリなら。
モルグ街の殺人、そして誰もいなくなった、オリエント急行の殺人、Yの悲劇、フランス白粉の秘密、ブラウン神父の童心、長いお別れ、薔薇の名前、黄色い部屋の謎、ポケットにライ麦を、ABC殺人事件、女には向かない職業、アクロイド殺し、毒入りチョコレート事件、九マイルは遠すぎる、
ちっともミステリを読んでいない自分でも、このくらいあげられる。広く読んでいるミステリのファンなら、かるくこの十倍は傑作の候補をあげるだろう。
素晴らしい作品がたくさんあることは素晴らしいことであるはずなのに、なぜか気が滅入る人もいるのではないだろうか。
DVDで映画をレンタルするようになってから、ちょうど10作品分の感想を書いたところだから、くだらない自分の感情についても書いてみようかと思う。
名作は抑えておかなくちゃいけない、と信じ込んでいた。
名作映画を全然見てない自分に劣等感を覚えていたころ、あまりにも膨大な傑作の山に、手が出ずにいたのを覚えている。どうせ、一つ消化しても、まだ先がある。終わらない。終わらないということはよくないことだ。そんな風に考えていた。そんな風に考えて、映画も、小説も、どんどん手を出せなくなっていった。見なくちゃいけない。読まなくちゃいけない。足りない。どこまでいっても足りない。
このとき、楽しむことは一切考えていなかったのだと思う。
消化、というのがダメだ。楽しくなかったら、傑作でも見るのをやめたらいい。退屈だと吐き捨てればいい。
目の前の一つの作品を楽しむのが先決だ。
多くの作品に触れた、という意味での教養とは、目の前の作品を味わい続けた人間が後ろを振り返ったとき、気付けば積みあがっているものにすぎない。
そんなことは理屈ではわかっていたけど、どんどん踏み出せなくなった。
いつしか本を読まなくなった。作品に触れなくなっていった。
それが最近、少しだけ回復してきたみたいだ。
自分の中で、「名作は抑えておかなくちゃ」という気持ちが消えた理由はよくわからない。クロールで、理屈ではできるはずなのにうまくいかなかった息継ぎができるようになったときみたいに、その強迫観念は消えた。息継ぎができるようになってからしばらくして、またできなくなった。同様に、「名作は抑えておかなくちゃ」という感覚が復活して、膨大な傑作の山に積み残しの宿題を諦めたいときみたいな気持ちになって、また映画からも本からも遠ざかっていくときがくるかもしれない。
でも今は、楽しめる。だからせいぜい楽しんでおきたい。
映画を見てきた人間には映画を見てきた人間なりの素養がある。
映画を見てこなかった人間には、映画を見てこなかった人間なりの素養がある。
あるがままに、いろいろなことを受け止めていけるようになれたらいい。なれなくてもそれでいい。