日記:言の葉の庭
なんといっても映像がすごい。
ジブリは森や田舎、自然、街並みにしてもノスタルジーを感じさせる街並み、もしくは西洋式の街並み、そういうのを描くのが得意なところだ。
しかし、日本の、都市部の風景を、駅を、マンションの群れを、信号機を、標識を、どちらかといえば無機質なものをシャープに描かせたら、新海誠に敵う人はいないだろう。
雨も、無機質の部類に入ると思う。雨は生き生きとしていない。時代の洗礼を受けて劣化しない。透明で、冷たく、あたたかくない。その雨に包まれたとき、どちらかといえば有機的であるはずの公園も、木製のベンチも、すこし無機質の側に寄る気がする。
少なくともこの作品において、新海誠という人は、あたたかく、輪郭のぼやけたものとして、自然を描かない。どこまでもシャープなものとして自然を描く。
そういうところがいい。
以降、ネタバレあり。
雨の日だけ、会える関係。名前も知らない関係。
そんなものはお互いが状況に酔ってるから成立するんじゃないかとちょっと思う。
なぞかけをして、それで古典の先生だと気づいてもらおうとする雪野もなんというか、なんというかだ。
しかし、雨の日を望んでしまう、みたいな迂遠な言葉でなんらかのことを表してしまうのは、こういう酔っぱらった人たちだからこそ出てくる詩情なのかもしれない。
酒飲んでたし。
私たちのうち何人が新宿御苑を訪れたとき、屋根付きのちょっとしたベンチを物語のなかである種の聖域として描くことを発想するだろうか。
ああいうのは何気ないものだ。何気ないものにノスタルジーや美しさを感じるくらいなら、できる人は多い。しかしそこに物語の中で価値を付与するということができる人間はきっと少ない。そして、ただ素晴らしい画面をつくるだけでは人によっては消化不良で、そこに何らかの価値づけをするからこそ、画面に意味が溢れていく。
上で酔っぱらっていると言ったが、その酔っぱらった発想力こそが、この作品の根底を形作る映像美につながっているんだろう。
二人の密会は必ずしも素敵なものとして描かれず、一種の逃避として描かれている。
孝雄くんは学校をさぼって、雪野さんは職場に行けずに。
しかしその一方でお互いに雨の日を望んでいるという点が、何とも言えない。少なくとも健康的ではない。まぁ実際に健康じゃないからいいのか。
好きな場面は、好意を告げられた際に、雪野が「雪野さん」ではなく「雪野先生」だと訂正するところ。正しいけどずるい。その癖、後悔するんだから、どうしようもない。
劇場で見たかったかも。