小説:ドラッグ&ドロップ

 カプセルを齧ると、かるく一時間は飛ぶ。

 めまいがする。吐きそうになるし、実際に吐いていることもある。一方で、極上の悦楽を感じる。まさしく世界と同化できる。体が全てと溶け合って、あふれる。そう、あふれる。あふれるという言葉が適切だ。僕がコップからあふれてこぼれて、でもカーペットにしみこんでしまったらカーペットさえも僕になるし、それなら当然、雨も、空も僕になる。どこまでもあふれていく。

 僕がカプセルに手を出したのは、インターネットに入り浸っていたころのことだ。それは知る人ぞ知る秘されたコミュニティにおいて、有益な情報として共有されていた。だから僕はカプセルに手を出すことにした。カプセルに詰まっているのは薬物じゃない。情報だ。といっても、女の子にモテる釣り糸のたらし方とか、カレー用ソースポットの歴史とか、イッカクの生態とか、そんなチャチな情報が掲載されているわけではない。そんな量じゃ、詰まっているとは言えない。カプセルには、その日一日のすべての情報が詰まっている。例えば2001年9月11日のカプセルを齧れば、僕は例の事件のすべてを知ることができる。でもそんな劇的な日付のカプセルは出回っていないし、劇的な日付を選ぶ必要もない。

 世界はいつだって劇的で、何もかもあふれている。

 

 

 

 

 カプセルは、不法なものとされている。しかし僕から言わせてもらえば、カプセルをやめさせたがるあいつらこそ間違っている。知れば、世界はよくなるからだ。知らぬ人間たちが、その無知を晒して、僕たちの足を引っ張る。全世界の人間がカプセルを飲み込めば、戦争も飢餓も、貧富の差も、差別も、そういったことはなくなる。そもそも貨幣というシステムが不要になる。あんなものは人間が愚かであることを前提にしたシステムだ。

 しかし、僕だって人のことは言えない。僕が摂取したカプセルは、まだ10にも満たない。金が要る。愚かな人間がカプセルを違法なものにしてしまったから、製造も流通も一苦労なのだ。僕は糊口を凌ぎながら、余らせた金でカプセルを買う。その暮らしを続けていけば、何もかもうまくいく。

 その日は×××4年×月6日のカプセルを買った。僕はよりよくなった。また一つ間違えなくなった。周囲の凡俗は間違えてばかりだ。間違えるのは彼らの努力が足りないからだ。彼らは誰かを傷つけ、搾取し、よがるような日々を続けている。彼らは彼らが踏みつけている存在には気づかない。僕は気づいている。だから、世間がどんなに死体を並べた大地であったとしても、その間隙を縫ってゆく。無論、僕だって間違える。しかし僕のミスは一日一日、着実に減っている。彼らとは違う。

 

 

 

 ××奈は言った。

「ねぇ、私のこと覚えてる?」

 無論、僕は知っている。

「君は××奈だろう。×木×朗と×木××子の第二子だ。彼らの第一子、×木××朗の妹だ。君について僕はたくさんのことを知っているから何を言えばいいかわからないけど、現在の君を構成する大きな要素としては、兄の×木××朗が薬物中毒で捕まったことをとても悲しんでいるね。大丈夫。そんなことは些細な問題だよ。なぜなら君は2年後には兄のことをあきらめるし、その時期を支えてくれた友人と結婚する。もちろん、結婚だけが幸せの形ではない。でも分かりやすい証拠として僕は言ったんだ。だって僕が、君は2年後幸せになると無条件に言ったって、君は信じないだろう?」

 ××奈は何も言わなかった。

 面会時間は終わった。

 

 

 

 僕はよい牢獄での過ごし方を知っているから、この環境をどんどんよくしていく。反省の色すら見えなかった囚人たちも、今では希望を持っている。色々な事情の者たちがいる。貧困にあえいでいた者、すこし倫理観の欠落している者、衝動が抑えきれなかった者。それでも僕らはきっとよりよくなれる。だって僕たちはいろんなことを知った。牢獄のなかでカプセルを齧ることはできないけれど、既に1000粒は越えている。知れば、僕たちは救われる。

 その日も××奈がやって来た。

「×屋くんとか、×橋さんがあなたに会いたいと言ってるの」

 僕は×屋くんのことも×橋さんのことも知っていたが、断った。

「必要がない。×屋くんも×橋さんも今はすこし気分がすぐれないみたいだし、第一僕と会ってどうするんだい? 彼らの輝かしき人生に僕は必要ないさ」

 ××奈は声を震わせる。泣いているようだった。

「×橋さん、ずっとお兄ちゃんのこと待ってるって言ってる。お兄ちゃんだって、×橋さんを守っていくために頑張ってたんじゃないの? どうしてそんな風になっちゃったの」

 ××奈が幸せになることは知っているけれど、僕だって目の前で泣かれてしまうのは心苦しい。

「個人が優先できる世界は限られている。個人でいる限りね。でも僕はそれを拡大したんだ。だから、もう僕は君の知っているお兄ちゃんじゃないけれど、きっとよりよくなれた。一人じゃなくて二人、二人じゃなくて三人を幸せにすることができる。僕は直接×橋さんの手を取ることはもうないだろうけど、結果的に、×橋さんもよくなっていくよ。第一、男が女を守るという考えが、あんまりよくないと思うな」

 ××奈は涙をぬぐった。

「もういい。許可、取ったことにするから」

 ××奈は出て行った。目の前のできごとだけ切り取れば、僕は彼女を傷つけている。でも、そういうことを考えるのも、知らないからだ。知っている僕は、こうするのが一番いいと知っている。

 

 

 

 僕は計画を実行した。

 それは暴動と呼ぶには組織立っていた。情報を共有できるすべての人間が、緻密に動く。テロというのが近いかもしれない。計画通り、僕はこの国を脱出して××に渡る。それが一番いい。僕は知っている。カプセルを開発したのは××の人間だし、××の人間も僕とコンタクトをとりたがっている。

 囚人たちは僕に感謝した。僕はこの先、彼らにもカプセルを与えるつもりだ。僕は彼らに、必要な最低限の断片しか伝えることができなかった。

 以前の僕は愚かだった。知らない人間に罪があると勘違いしていたのだ。知っている僕が知らせなければいけないのに、その役割を放棄し、自己責任と断じたのだ。でも僕はそのころと比べものにならないほどよくなったから、よくわかる。僕こそが彼らを啓蒙すればそれだけで済むのだ。

♪~

 僕が潜伏中の穴倉となるアパートの隅っこでラジオを聞いていると、音楽が流れた。ニュースを聞いているつもりだったが、チャンネルがずれてしまったらしい。

 エリック・サティジムノペディ。×橋×香が好きだった曲だ。

 なぜ僕は、×橋×香のことを思い出しているのだろう。

 エリック・サティジムノペディも世界的に有名だ。当然、この曲に関するエピソードは無数にある。有名なものから、無名の誰かのちょっとした思い出まで、僕はすべてを知っている。それなのに×橋×香のことを思い出すのは不自然だ。

 自分が涙を流していると気づいたとき、僕は寝たほうがいいと知っている。

 だから僕は眠りにつく。

 そうすればうまくいく。

 柔らかくあたたかい毛布の感触が、どうしてか心細い。

 カプセルがほしい。ぜんぶ僕になれば、僕は安心できる。