日記:古い小説のように死を語る

 随分とツイッターに脳をおかされているので、死について語るというと、追い詰められた人の絞り出す言葉のように感じる。実際、追い詰められた人の言葉であるときもあれば、そうでないこともある。

 もっと死を、冷静に見つめてもいいのかもしれない。すこし古い小説を読んで思った。

 そうしろとか、そうできるとは言わない。しかしながら、死について触れること、それ自体を自分が禁忌のように感じていると気づいた。禁忌のように感じながら、たまに考えてしまう。だからこそ、追い詰められた言葉になってしまう。

 死にまつわる感情をそのまま吐き出すのではなく、まとまった文章としてアウトプットするということは、おおむね嘘をつくということだと思う。整理されていない感情は音と色が混ざり切ったようなもので、捉えがたい。捉えがたいものを捉えようと順序立てる時点で、何かがずれていく。そしてそれが一種の物語になると、酩酊がうまれる。こうなっていくと、文章を書く動機だった感情は、もはや文章を書くための道具でしかなくなる。死にまつわる感情は、そうしているうち、切実な何かから単なるテーマへと落とし込まれる。

 となるのは、俺が何も考えず文章を書くことになれているからだし、文章を書くことに快楽を覚えるからだろう。それでも、感情を言葉に変えて気持ちいいものに変換できるなら、それに頼ってみるのも一興だろう。