日記:のけもののいない楽園

けものフレンズというアニメを見ている。

擬人化された動物たちの住む舞台で、人間である主人公が人間であることを自覚しないまま、自分がどんな動物か辿っていく物語だ。旅をしながら一期一会で様々な動物たちと出会い分かれてゆく。ロードムービーのような趣がある。

けものフレンズのOPの歌詞にはこんな一節がある。

「けものはいても のけものはいない」、作品の雰囲気をよくあらわしている。

1話では、できないことがあっても得手不得手があるのだ、ということが象徴的に描かれていた。

そういうところから、多様性の受容、みたいなものを感じる。けものフレンズは全体的に、平和で優しい雰囲気が徹底されている。それは素敵なものに見える。忘れてしまったイノセントな何かに、もう一度触れられるような気がする。

 

一方、そういうものを欺瞞だと思う自分もいる。

 

例えばけものフレンズの動物たちには食物連鎖がない。食糧は、じゃぱりまんというどこからともなく支給されるものに依存している。食糧は潤沢なようで、それをめぐって争うこともない。安心して生きていける。

またアニメーションの作中の範囲では、同じ種の動物は一人ずつしか同じ時空間上にあらわれない。違う種だからといってまったく似たところがないわけではないが、得手不得手は競合しづらいように見える。

それならのけものがいないのも当然じゃないか。

限られたパイを争わずに生きていける。同じ種のなかで自分が不出来だと突き付けられることもない。あくまで違う種として、競合しない個性を尊重できる。

そんな環境で、イノセントな何かが描かれていても、それは脱色された何かだ。

そんなことを思ってしまう。

 

もし人間がパイを争う必要がなくなって、個性が競合しなくなって、あんなに優しい雰囲気にはならないと思うから、そこにある何かはやっぱり素敵なものだ。

もっと言うと、ここでは、けものフレンズのごく一面だけ切り抜いて語っている。主人公が初めて出会うサーバルがこういう性質を強く持っているが、他の動物は必ずしもそうではない(しかし優しい雰囲気は一貫している)。

けものフレンズはもっと色々な、面白い要素を秘めている。上のような環境であるからこそ、当然のことを当然のように指摘をするだけのちょっとした描写が、優しい雰囲気の反動で胸に響いたりする。SF的な、その環境から去った存在をほのめかす残り香なんかも面白い。擬人化された動物を通して、動物の一種としての人間の特徴を描く試みも「頭がいい」みたいなものに終始していないから素敵だ。

しかし、やっぱり上で書いたような欺瞞みたいな何かを感じて、ひっかかってしまう自分がいる。

もちろんほとんどの人はそういうのをわかった上でアニメを見て楽しんでいるだろう。だからこれは、単純に、余計な思考に引っ張られすぎてしまう人間の愚痴だ。