日記:得手を疑い、不得手だけを信じていた頃
一介の学生を主人公にした漫画で、このキャラクターは××が得意、なんて言われるとうすら寒い気持ちがした。そういう時期があった。
そんなちっぽけな得意は、それがもっともっと得意な人間に塗りつぶされて、見えなくなる。褒めることがない相手を褒めるために、強引に個性を見出して、それにどんな意味があるのだろう。そう思っていた。
そういうことを思う自分は、小説や漫画ばかりに浸りすぎていたのだろう。
だってこれは要するに、トップレベルでなければ得手不得手になど意味がないと言っているに等しい。
トップレベルの人間というのは少ない。トップレベルだからだ。多かったら、それはもはやトップレベルではない。
だからほとんどの世界に、トップレベルじゃない人たちが参加していて、それでもなんとかやっていこうとしている。なんとかやっていけている。もちろん倒れることもある。しかし倒れていく人間ばかりでないのも事実だ。
こういうことを痛感したのは、大学に入ったころだ。
所詮誰かに劣る個性だ、なんて思わず動いて、なにかを成し遂げる人たちがいる。そういう人たちが、それなりの評価を受けたりする。対する自分は、身動きできずにただただ時間をやり過ごしている。
自分には、何ができるのだろうか。
そんなことさえわからないまま、自分の不得手ばかりに気を取られ、時間がじりじりと目減りしていく。
(こんなブログを書いたが、自信のない人間ではない。むしろ自分の有り余る弱点に目をつぶってしまうほど、自分が好きな人間だと思う。まとまった文章を書くと、どうにもこういう嘘がでてしまう。)
(ただ何が得意かと言われると答えられないので、そういう意味で自分の強みがわからないところは嘘ではない。強みを持ちたい。)
日記:北極に行きたい
北極に行きたいとかねがね思っていた。
これについて話すと、「南極ではなくて?」と聞かれる。
どう考えても北極だ。
陸地がない北の地こそ、人間を拒んでいるように感じられるじゃないか。
人間を拒んでいる北極の地に足を踏み入れて、そしてゆっくりと眠りに落ちたい。
星空やオーロラにまみれた最期がいい。
そういうのにあこがれる。
しかし、詳しく調べてみると北極と南極では、南極のほうが気温が低いらしい。
ひょっとして、南極のほうが人間を拒んでいるのかもしれない。
どうしよう。
ちなみにペンギンとホッキョクグマでは断然ペンギンが好きだ。
しかし北極海付近に生息するイッカクにも一度は会ってみたいと思う。
ホッキョクグマとかペンギンは水族館や動物園で会えるけど、イッカクは世界中さがしても水族館じゃ会えない。
苦渋の決断だ……。
日記:7/24
きついときには2パターンあって、状況がきついと心がきついというのがある。
今の状況は、心がきつくなっていたら、状況がきつくなっていたという感じだ。
状況がきついのでとりあえず起き上がって動けているが、心がなおったわけではないので、パフォーマンスはよくない。
平均的なパフォーマンスをいつも出せるようになりたいものだ。
ところで「信頼を置く」という言葉、かっこいい。動詞部分に対するかっこよさの感じ方が変遷している気がする。昔は複合動詞を使って「呼ぶ」ではなく「呼びつける」、「つくる」ではなく「つくりあげる」、「降る」ではなく「降りしきる」みたいに表現することにかっこよさを感じていたが、今は「信頼を置く」「反感を持つ」「言葉をかける」のような機能動詞っぽいやつがかっこいいと思う。小説とかを書くときに生かしているかはわからない。
なりたくない人間になりそうだけど、なりたい人間像があるわけでもない。
「たくさんの人から気にかけてもらったり声をかけたりしてもらったりしているのに世界で自分は一人ぼっちみたいな顔している人」とか、「ちょっとしたことに打ちひしがれて悲劇ぶる人」とか、「日々の生活のひとつひとつを楽しめず悲観的なことばっかり言ってグチグチしてる人」とかになりたくない。そういう人で、魅力的な人もたくさんいると思うのだけど、自分にそういう魔力はないし何より心情的によくない。一方、今まさにそういう方向へ近づいている気がする。忙しいとか言ってないで、小説を読んだりすべきなのかもしれない。
日記:人間の誕生日
facebookにログインすると、毎日のように人間が誕生日を迎えていることを教えてくれる。twitterのタイムラインを見ていると、毎日のように誰かが誰かを祝っている。
今年はどうも、それが多く感じる。
去年と比べて特に知り合いは増えていない。だから、実際に見える誕生日の頻度はあまり変わらないと思う。それなのにどうしてか、日々人が誕生日を迎えている事実がどうにも受け入れがたい。以前よりはしっかり生きているから、体感時間が短くなって、その分誕生日と誕生日の間の距離が短く見えるのかもしれない。それにしたって、以前であればタイムラインで誰かが誰かを祝っていれば、自分も便乗して祝ったと思う。でも、それができなくなりつつある。どうしてかはわからない。
誰かにとって特別な一日を、毎日のように誰かが迎えているという事実が情報として重すぎるのかもしれない。
それは当然、毎日のようにどこかの誰かの命日が来るということでもある。
数えきれない人間が、必死に、自分なりに毎日を生きて、膨大なことを考えているということでもある。
その奔流のなか、流されているのか逆らっているのかもわからないまま、俺は何をしているのだろう。何もわからない。
日々の、友人の誕生日を大事にして、前々から準備をして、プレゼントを贈ったり、ちょっとしたお祝いの言葉を届けたり、そういうことができる人間を尊敬する。彼ら彼女らの誕生日こそが、しあわせなものになるといい。
日記:服
最近、周囲の人間の服がだんだんと大人らしくなってきている気がする。
スーツや礼服なら俺も持っているが、オフィスカジュアルとかよくわからないし、綺麗めで落ち着いた私服とかもよくわからない。
今までの人生も年齢に適切な服を着てきたとは到底言えないが、そろそろ何かがまずくなってくるのではないか、という危機感がある。
かっこよく/おしゃれな服装がしたいかというとあまりそういうこともない。一方、相手を納得させられるような服装はできないといけないなぁと思う。要は、ナメられないようにしたい。弱肉強食のコンクリートジャングルで弱側に属すると思われる私としては、なるべく弱と露見しないようにせめて擬態しなくてはいけないと思う。場にあった服装ができていないというのは、一見して狩猟対象だと思う。
いや、いっそ見るからにやばい格好をして威嚇していくのもアリかもしれない。
「この人はこうだから」と思われるような強まった服装を続ければ、場にあってないとかそういう儀礼は免除されることがある。諦められるのだ。
常に燕尾服とか着ておけば強そうに見えるか?
ところで、最近、人間の服装に「よさがあるなぁ」と感じることが割とある。けれど、上のようにキャラがキャラなので結局言えずに終わる。服がわからない人間が服をほめてもなぁ。
ただ、人の服装によいなぁと思えても、自分の服装を気にすることに楽しみを覚えられない。実用性の薄い変化だ。
日記:孤独であること/一人でいること
孤独であるからといって、一人でいるとは限らない。
むしろ人と一緒にいることもある。
楽しく遊んだり、しゃべったりしていることもある。
それなのに寂しく思ったりする。交流が空虚なものに思えたりする。
きっとそれは交流の質の問題ではない。
しばらく一人で過ごした後、同じように誰かと会ったとき、とてもうれしい気持ちになる。人と言葉を交わすことが大切であることを思い出す。
では何の問題か、と言えばよくわからない。
こんな話がある。人は溺れているとき、おいしいものが食べたいなんて思わない。丘にあがって、ゆっくりと息を吸って、そのあとにおいしいものが食べたくなる。ここからは勝手につけくわえるけど、おいしいものを食べて満腹になったあとも、おいしいものが食べたいとはあんまり思わない。甘いものは別腹なんて言うけれど、それはやっぱりデザートの話で、メインディッシュの話ではない。それでも食べるなんていうのは、水にこそ溺れてはいないけど、食べ物に溺れ始めている。
同じことなのかもしれない。
人によっては、孤独は切実なものだ。だから手を伸ばす。誰でもいい。それから気の合う人と過ごしたくなる。それからそれから、誰と会っても足りない気分になる。孤独になる。認識が間違っている。もう満腹なのに食べようとするから、苦しくなっているだけだ。
適量の人とすごす時間と適量の一人でいる時間を揺れ動きながら、常に満足はできずに、その中で少しずつ幸せになろう。
と、まとめたけど、ここで書いたことは自分の本心というより、まとまるようにまとめただけだったりする。そんなもの。
日記:よくなってきた
なんとなく精神が上向きになってきた気がする。
もちろん、つらいことはある。例えば口内炎が痛い。自宅で使っているキーボードがきかなくなってきた。何らかの期限が迫っている。
しかし、何でもないことに嫌気がささなくなってきた。
この「なってきた」というのはせいぜい2,3日のことで、明日どうなっているかはわからないけど。
最高に理想的な状態は、生活そのものが楽しい状態だ。
ジブリの映画とかで、やたら楽しそうにシーツを干し、やたら楽しそうに目玉焼きをつくる人間が描かれたりする。
(これはイメージで実際に目玉焼きだったかはわからない)
それになれたらよい。
ただ、これはハードルが高すぎる。
今はたぶん、やり過ごすように生活をしている。
目的のない時間稼ぎだ。
それはすこし悲しいから、毎日少なからずいいことを見つけたいと思う。