日記:人間の誕生日
facebookにログインすると、毎日のように人間が誕生日を迎えていることを教えてくれる。twitterのタイムラインを見ていると、毎日のように誰かが誰かを祝っている。
今年はどうも、それが多く感じる。
去年と比べて特に知り合いは増えていない。だから、実際に見える誕生日の頻度はあまり変わらないと思う。それなのにどうしてか、日々人が誕生日を迎えている事実がどうにも受け入れがたい。以前よりはしっかり生きているから、体感時間が短くなって、その分誕生日と誕生日の間の距離が短く見えるのかもしれない。それにしたって、以前であればタイムラインで誰かが誰かを祝っていれば、自分も便乗して祝ったと思う。でも、それができなくなりつつある。どうしてかはわからない。
誰かにとって特別な一日を、毎日のように誰かが迎えているという事実が情報として重すぎるのかもしれない。
それは当然、毎日のようにどこかの誰かの命日が来るということでもある。
数えきれない人間が、必死に、自分なりに毎日を生きて、膨大なことを考えているということでもある。
その奔流のなか、流されているのか逆らっているのかもわからないまま、俺は何をしているのだろう。何もわからない。
日々の、友人の誕生日を大事にして、前々から準備をして、プレゼントを贈ったり、ちょっとしたお祝いの言葉を届けたり、そういうことができる人間を尊敬する。彼ら彼女らの誕生日こそが、しあわせなものになるといい。
日記:服
最近、周囲の人間の服がだんだんと大人らしくなってきている気がする。
スーツや礼服なら俺も持っているが、オフィスカジュアルとかよくわからないし、綺麗めで落ち着いた私服とかもよくわからない。
今までの人生も年齢に適切な服を着てきたとは到底言えないが、そろそろ何かがまずくなってくるのではないか、という危機感がある。
かっこよく/おしゃれな服装がしたいかというとあまりそういうこともない。一方、相手を納得させられるような服装はできないといけないなぁと思う。要は、ナメられないようにしたい。弱肉強食のコンクリートジャングルで弱側に属すると思われる私としては、なるべく弱と露見しないようにせめて擬態しなくてはいけないと思う。場にあった服装ができていないというのは、一見して狩猟対象だと思う。
いや、いっそ見るからにやばい格好をして威嚇していくのもアリかもしれない。
「この人はこうだから」と思われるような強まった服装を続ければ、場にあってないとかそういう儀礼は免除されることがある。諦められるのだ。
常に燕尾服とか着ておけば強そうに見えるか?
ところで、最近、人間の服装に「よさがあるなぁ」と感じることが割とある。けれど、上のようにキャラがキャラなので結局言えずに終わる。服がわからない人間が服をほめてもなぁ。
ただ、人の服装によいなぁと思えても、自分の服装を気にすることに楽しみを覚えられない。実用性の薄い変化だ。
日記:孤独であること/一人でいること
孤独であるからといって、一人でいるとは限らない。
むしろ人と一緒にいることもある。
楽しく遊んだり、しゃべったりしていることもある。
それなのに寂しく思ったりする。交流が空虚なものに思えたりする。
きっとそれは交流の質の問題ではない。
しばらく一人で過ごした後、同じように誰かと会ったとき、とてもうれしい気持ちになる。人と言葉を交わすことが大切であることを思い出す。
では何の問題か、と言えばよくわからない。
こんな話がある。人は溺れているとき、おいしいものが食べたいなんて思わない。丘にあがって、ゆっくりと息を吸って、そのあとにおいしいものが食べたくなる。ここからは勝手につけくわえるけど、おいしいものを食べて満腹になったあとも、おいしいものが食べたいとはあんまり思わない。甘いものは別腹なんて言うけれど、それはやっぱりデザートの話で、メインディッシュの話ではない。それでも食べるなんていうのは、水にこそ溺れてはいないけど、食べ物に溺れ始めている。
同じことなのかもしれない。
人によっては、孤独は切実なものだ。だから手を伸ばす。誰でもいい。それから気の合う人と過ごしたくなる。それからそれから、誰と会っても足りない気分になる。孤独になる。認識が間違っている。もう満腹なのに食べようとするから、苦しくなっているだけだ。
適量の人とすごす時間と適量の一人でいる時間を揺れ動きながら、常に満足はできずに、その中で少しずつ幸せになろう。
と、まとめたけど、ここで書いたことは自分の本心というより、まとまるようにまとめただけだったりする。そんなもの。
日記:よくなってきた
なんとなく精神が上向きになってきた気がする。
もちろん、つらいことはある。例えば口内炎が痛い。自宅で使っているキーボードがきかなくなってきた。何らかの期限が迫っている。
しかし、何でもないことに嫌気がささなくなってきた。
この「なってきた」というのはせいぜい2,3日のことで、明日どうなっているかはわからないけど。
最高に理想的な状態は、生活そのものが楽しい状態だ。
ジブリの映画とかで、やたら楽しそうにシーツを干し、やたら楽しそうに目玉焼きをつくる人間が描かれたりする。
(これはイメージで実際に目玉焼きだったかはわからない)
それになれたらよい。
ただ、これはハードルが高すぎる。
今はたぶん、やり過ごすように生活をしている。
目的のない時間稼ぎだ。
それはすこし悲しいから、毎日少なからずいいことを見つけたいと思う。
日記:『夜は短し歩けよ乙女』
あれこれと異なった面白味を追い求め続ける、というのはおもいのほか難しい。
人は、悲しみや苦しみと向き合わなければならないことが多い。自然、面白いことからテーマを引き出すより、悲しみや苦しみからテーマを引き出すほうが楽だ。テーマは、共感できない人間にさえ何かをつきつける。しかし面白味は違う。それはパフォーマンスであり、観客を面白がらせることができないのならすべて無意味だ。面白がらせようとしているのに面白くないその悲哀が、人間を魅了することもあるけれど、それはやっぱり副産物である。面白味、というのは逃げ場なき真剣勝負だ。
ネタバレありません。
続きを読む日記:Q. 綺麗な景色を見たとき、人はどうすればいい?
A. 綺麗だと思えばいい。
美しく世界を切り取る人たちの撮った写真以上のものを、自分は手に入れられないのではないか、ということを思う。写真のなかの世界は、まるでこの世界ではないみたいに美しい。誰かが撮った写真の街にあこがれても、本当にその街を歩いて楽しめるかはわからない。綺麗な景色を見たとき、ただ綺麗だと思えばいいはずなのに、それがどこか「実際に行った」という行為の確認みたいな色を帯びる気がする。純粋な感動はどこに行ってしまったのだろう。同様に、アニメーションのなかの街に何らかの良さを覚えることもあるけど、自分がそこを歩いても「こんなもんか」と思うしかできないのがありありと想像できる。
ひょっとすると俺がただ冷めた人間で、現実の風景に感動できない、薄っぺらい人間であるというだけなのかもしれない。これは結構な絶望だ。言葉やアニメや写真や、そういった創作物が好きだからこそ、彼らが称える美しいものに感動できないことがかなしい。
ここまで書いて、三島由紀夫の金閣寺を思い出した。主人公の親がさんざん美しいと語っていた金閣寺を始めて見たとき、彼は美しいと思わない。あの小説を読んだとき、なんとなく安心したのを覚えている。初めて金閣寺を見たとき、自分もすこし拍子抜けだった。しかしその主人公は時を経て、金閣寺に美を見出し、更には火をつけるに至る(こんなストーリーで合ってたっけ?)。俺もいつか、そうした美を何かに見出すことがあるのだろうか。
むしろ、色々なものを「こんなものか」と確認しながら、ぼーっと時間をすごす旅なんかに行きまくって、それもそれで生き方としてはいいものかもしれない。
メモ:複合形容詞リスト1(X+イ形容詞語幹+な:気軽な/手薄な/etc)
前書き
趣味でつくった複合形容詞のリストです。
「手+薄い」が「手薄な」となるように、「-い」で終わる形容詞に、何らかの要素が前接することで、「-な」となるものを収録しています。
収集方法は根気。表示は元になる形容詞ごとの五十音順です。「元の形容詞-複合形容詞」と表記しています。
(うまいことやれば大規模なデータから機械的に収集できると思うので、甘えです)
要するに手動で集めているので、抜けに関してはご指摘くださるとありがたいです。
複合形容詞リスト1
青い-真っ青な
赤い-真っ赤な
厚い-肉厚な
甘い-甘々な,大甘な,べた甘な
薄い-手薄な
軽い-気軽な
臭い-物臭な
暗い-真っ暗な
黒い-真っ黒な
白い-真っ白な
少ない-言葉少なな
狭い-手狭な
高い-声高な,割高な
近い-手近な,身近な
長い-気長な
早い-足早な
深い-目深な,欲深な
太い-骨太な
丸い-まん丸な
短い-手短な
安い-格安な,割安な
弱い-気弱な,ひ弱な
悪い-意地悪な,性悪な
おまけ
味のように、形容詞でないものが接頭辞を伴い、「大味な」といった形容詞としてふるまうものもあります。「小刻みな、無感動な」なども同様。これのリストもつくりたいですが、手作業で収集するのはちょっと難しいかもしれません。
否定接頭辞については有名な話なので、そこを掘れば色々まとまった資料が見つかりそうではありますが、それ以外との共起関係が想像つかないですね。