日記:Q. 綺麗な景色を見たとき、人はどうすればいい?
A. 綺麗だと思えばいい。
美しく世界を切り取る人たちの撮った写真以上のものを、自分は手に入れられないのではないか、ということを思う。写真のなかの世界は、まるでこの世界ではないみたいに美しい。誰かが撮った写真の街にあこがれても、本当にその街を歩いて楽しめるかはわからない。綺麗な景色を見たとき、ただ綺麗だと思えばいいはずなのに、それがどこか「実際に行った」という行為の確認みたいな色を帯びる気がする。純粋な感動はどこに行ってしまったのだろう。同様に、アニメーションのなかの街に何らかの良さを覚えることもあるけど、自分がそこを歩いても「こんなもんか」と思うしかできないのがありありと想像できる。
ひょっとすると俺がただ冷めた人間で、現実の風景に感動できない、薄っぺらい人間であるというだけなのかもしれない。これは結構な絶望だ。言葉やアニメや写真や、そういった創作物が好きだからこそ、彼らが称える美しいものに感動できないことがかなしい。
ここまで書いて、三島由紀夫の金閣寺を思い出した。主人公の親がさんざん美しいと語っていた金閣寺を始めて見たとき、彼は美しいと思わない。あの小説を読んだとき、なんとなく安心したのを覚えている。初めて金閣寺を見たとき、自分もすこし拍子抜けだった。しかしその主人公は時を経て、金閣寺に美を見出し、更には火をつけるに至る(こんなストーリーで合ってたっけ?)。俺もいつか、そうした美を何かに見出すことがあるのだろうか。
むしろ、色々なものを「こんなものか」と確認しながら、ぼーっと時間をすごす旅なんかに行きまくって、それもそれで生き方としてはいいものかもしれない。
メモ:複合形容詞リスト1(X+イ形容詞語幹+な:気軽な/手薄な/etc)
前書き
趣味でつくった複合形容詞のリストです。
「手+薄い」が「手薄な」となるように、「-い」で終わる形容詞に、何らかの要素が前接することで、「-な」となるものを収録しています。
収集方法は根気。表示は元になる形容詞ごとの五十音順です。「元の形容詞-複合形容詞」と表記しています。
(うまいことやれば大規模なデータから機械的に収集できると思うので、甘えです)
要するに手動で集めているので、抜けに関してはご指摘くださるとありがたいです。
複合形容詞リスト1
青い-真っ青な
赤い-真っ赤な
厚い-肉厚な
甘い-甘々な,大甘な,べた甘な
薄い-手薄な
軽い-気軽な
臭い-物臭な
暗い-真っ暗な
黒い-真っ黒な
白い-真っ白な
少ない-言葉少なな
狭い-手狭な
高い-声高な,割高な
近い-手近な,身近な
長い-気長な
早い-足早な
深い-目深な,欲深な
太い-骨太な
丸い-まん丸な
短い-手短な
安い-格安な,割安な
弱い-気弱な,ひ弱な
悪い-意地悪な,性悪な
おまけ
味のように、形容詞でないものが接頭辞を伴い、「大味な」といった形容詞としてふるまうものもあります。「小刻みな、無感動な」なども同様。これのリストもつくりたいですが、手作業で収集するのはちょっと難しいかもしれません。
否定接頭辞については有名な話なので、そこを掘れば色々まとまった資料が見つかりそうではありますが、それ以外との共起関係が想像つかないですね。
日記:古い小説のように死を語る
随分とツイッターに脳をおかされているので、死について語るというと、追い詰められた人の絞り出す言葉のように感じる。実際、追い詰められた人の言葉であるときもあれば、そうでないこともある。
もっと死を、冷静に見つめてもいいのかもしれない。すこし古い小説を読んで思った。
そうしろとか、そうできるとは言わない。しかしながら、死について触れること、それ自体を自分が禁忌のように感じていると気づいた。禁忌のように感じながら、たまに考えてしまう。だからこそ、追い詰められた言葉になってしまう。
死にまつわる感情をそのまま吐き出すのではなく、まとまった文章としてアウトプットするということは、おおむね嘘をつくということだと思う。整理されていない感情は音と色が混ざり切ったようなもので、捉えがたい。捉えがたいものを捉えようと順序立てる時点で、何かがずれていく。そしてそれが一種の物語になると、酩酊がうまれる。こうなっていくと、文章を書く動機だった感情は、もはや文章を書くための道具でしかなくなる。死にまつわる感情は、そうしているうち、切実な何かから単なるテーマへと落とし込まれる。
となるのは、俺が何も考えず文章を書くことになれているからだし、文章を書くことに快楽を覚えるからだろう。それでも、感情を言葉に変えて気持ちいいものに変換できるなら、それに頼ってみるのも一興だろう。
日記:LA・LA・LAND
まず、ネタバレをしない全体的な感想。
映像の快楽として最高だった。
賛否両論があるのはよくわかって、よくもわるくもディズニーランドのショーみたいな感じ。これはミュージカルだからというわけではない。だったらディズニー映画みたいと言う。
ディズニー映画それぞれのことはよく知らないけど、各作品の要素やエッセンスを引き抜いてきて切り貼りして王道でいい感じにまとめあげたものがあそこでやってるショーで、ラ・ラ・ランドも似たものを感じる。もちろん、それに終始するわけではないし、作品独自の新規性みたいなものもあるんだろうという気はする。
とかいうけど、ラ・ラ・ランドで名前ががっていた作品も全然見ていないし、カサブランカだって名前しか知らないし、オマージュにひとつも気づかないような人間だから、基本的には知ったかぶり。知ったかぶりだからこそ、これが新しいのか焼き増しなのかはよくわからない。
そんな映画もミュージカルも見ない人間なりの感想を、ここ以降はネタバレ容赦せずに書いていきます。
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日記:のけもののいない楽園
けものフレンズというアニメを見ている。
擬人化された動物たちの住む舞台で、人間である主人公が人間であることを自覚しないまま、自分がどんな動物か辿っていく物語だ。旅をしながら一期一会で様々な動物たちと出会い分かれてゆく。ロードムービーのような趣がある。
けものフレンズのOPの歌詞にはこんな一節がある。
「けものはいても のけものはいない」、作品の雰囲気をよくあらわしている。
1話では、できないことがあっても得手不得手があるのだ、ということが象徴的に描かれていた。
そういうところから、多様性の受容、みたいなものを感じる。けものフレンズは全体的に、平和で優しい雰囲気が徹底されている。それは素敵なものに見える。忘れてしまったイノセントな何かに、もう一度触れられるような気がする。
一方、そういうものを欺瞞だと思う自分もいる。
続きを読む日記:「日本の色」という言葉に疑いの目を向けてしまう
和色、伝統色、などで検索すると、いかにも美しい日本語といった感じの色の名前を紹介しているページに行き当たる。
こういうところ → 日本人の美の心!日本の色(伝統色・和色)
濡羽色、なんかが有名だろうか。いかにも風情がある色の語り方だ。
こういうものを見て、素直に、「日本にはたくさんの色があったんだね」と思えない。
まず出典はどこだ、ということが気になる。次にそれがどれほど定着していたか、ということも気になる。
例えば、どこかの歌人が一回そんな風に色を例えたとして、それは有名な1つのフレーズにすぎない。それを、「日本の色」みたいなくくりで紹介するのは、とても不誠実なことだと思う。
なんて難癖をつけたけど、上のサイトは結構そういうかゆいところまで説明がついている。使われ方としてこういうのがオーソドックスだった、とか、この作品名に色の名前が残ってる、とか。
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